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影にもなりたい…。

昨日のnoteで焚き火の事を書きながら浮かんできた事がある。
火は人を暖める。それと同時に火にあたりに来た人の後ろにその人の影を作る。この『影』が頭に残っていて書いてみたくなりました。

『影』又『陰』は最近ずっと気になっていたワード。先日のコーチングのトレーニングの時に2人の方から言われた
「コーチング中、コーチのともさんが居るようで居ない感じだった」
この言葉が自分の中ではとても嬉しく、価値観に響く言葉だったので、なんで響いたのかと考え続けていた。

僕の勝手な考えでは、コーチングという仕事・関わりはいつか無くなればいいなと思っている。

その人自身で自分の価値を強く感じ前に進む。周囲の人を認めて受け入れ共存していく。

そんな事が世の中の共通認識として、又は当たり前の思想として人々に浸透したら今以上に本当に素晴らしい世界になると思うし、その時にコーチングは必要無いものとなると思うからだ。

コーチングのコの字をかじり始めた程度の私がこんな事を言うのは非常に恐縮だしおこがましい事は百も承知なのですが、これが僕の今考えている理想。

そしてその過程で僕がコーチとしてクライアントと接する時に、もちろんその人を優しく暖める焚き火で在りたいのはいつも申し上げている通りなのだが、その先には僕は『影』になりたい。

居たのか居なかったのかよくわからないけど、気付いたらクライアントの心は暖かさをと勇気を持っていてくれている。
僕(火)にあたると自分の後ろに影ができる。「ああ、自分はこんな人間だったのか」
「こんな事を考えていたのか」
その人(クライアント)の影を映し出す事でその人が自分(自分の影)と対話できる。
そんなコーチングをしたい。

コーチングの関係が終わる時「ともさんがいてくれたから〜」とは言われなくていい。「自分の力を信じる事ができました。ともさんはもう居なくて大丈夫です。」と気持ちよく喫茶店から飛び出して行って欲しい。
偽善ではなく本当にそんなコーチになりたい。

「影ながら」「お陰様で」という言葉があるが、「影」「陰」という文字を使った理由が今ならなんとなくわかるきがする。

余談ですが、Yohji Yamamotoを着たくなるのは影が好きだからだったりするのかなと。強く美しいけど何処か儚さというか繊細さを感じるヨウジの服。きっとそれが自分の理想像だから、少しでも近づこうと纏っているのかもしれない。
これからもヨウジを着て街の中にいても影でいたい。なんと言うか、自分の中のエネルギーを高めつつ存在感を消していきたい。


【一日一直感】
『影』『陰』で思い出すのは学生の頃読んだ谷崎潤一郎の『陰影礼賛』でした。
久々に無性に読みたくなり、このnoteを下書き保存にして速攻購入。
なんと電子版で120円で買えました。ありがたやありがたや〜
帰りの電車でゆっくり読もうと思います。

ん?これは直感なのか?…

ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^