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僕は言い訳づくりのプロフェッショナル


今日は久々に近所をランニングしてきた。桜並木の桜も少しづづ先始めていて、今日の時点では五分咲きくらいだろうか、満開が楽しみだ。だが今回の新型コロナウイルスの影響で毎年行われる桜祭りは中止という事で非常に残念。そんな自粛ムードが高まる世間をよそ目に、Windowsのログイン画面は素晴らしい写真と共に日本の桜の名所をお勧めしてきてくれる。「日本にはこんな素晴らしい桜の名所があります。お花見が楽しみになりますね。」みたいな感じで。なんだかPCが初めていとおしく感じた。

さて僕はランニング中にiPodで音楽を聴く。今日も走りながらなんだか気分が乗ってこないなあと曲を次から次へと飛ばして、気分が高揚するような曲を探していた。あなたもそんな経験はあるのではないだろうか。自分で全曲ランダム再生にしておきながら、今の気分に合った曲がこなくてiPodにイラつくという………何という理不尽さか。iPodごめんなさい。

そうして曲を先送りしていたときに思った。「そういえば集中しているときには流れている曲なんて覚えてないし意識もしてないな」iPodごめんなさい。僕は気分が乗らないのを君のせいにしていた。

いやいやiPodへの反省を述べたいわけじゃなくて、書きたかったのは「走りに集中できないことを自分以外の事象のせいにしていた」という事。言い換えると「走りに集中できないことの言い訳を自分以外に作っていた」ともいえる。やっぱりiPodごめんなさい。

そう考えると、他にもいろいろと思いあたあることが浮かんできた。会社で集中できないときは周りがうるさいから。と思えば気分が沈めば周りが静かに黙々と仕事をし過ぎているから。あとは通勤中に読書に集中できないときは、目の間のおじさんのチャックが開いていてそれが気になるせいだとか。さっきぶつかってきたの何も言わずに立ち去ったサラリーマンにイラついているからだとか・・・・。こんなことばかりは悲しいくらいに次から次へと浮かんでくる。

きっと僕は間違ってなくて周囲のせいで集中できないのだ。なんて改めて書いてみるとなかなか情けない。自分でも集中できるとき没頭できるときはある。そんなときは周りを気にしていないとかの以前に、目の前のことにしか意識が言っていないから、むしろ話しかけられても気づかないくらい。だから僕でも他責にしないで何かに打ち込むことはできるのだ。

もちろん周囲の環境を自分がコントロールできる範囲で変えることで効率や集中力を高めることはできるから、それはしたほうがいい。けれど僕はNHKからオファーが来るのではないかというくらい言い訳つくるプロフェッショナルになっていたのだ。しかも無意識なのだからこれぞプロフェッショナルの中のプロフェッショナルではないだろうか。

じゃあそもそも自分がやりたいことやっていないんじゃないの?本当にやりたいことやっていれば勝手に集中するんじゃない?なんて言われるとなかなか手厳しい。これに関しては僕もそう思いながらここ数年を生きてきたつもりだ。けれど好きなことをやるせよ特にそれを始めるスタートの段階では、ある程度意識的にエネルギーを使うことが必要なんじゃないかというのが僕の見解だ。

確かに好きなことややりたいことは腰が上がりやすい。もはや腰を上げる労力すら感じないときもあるのは事実だ。けれどそれ以外に例えばこのnoteなんかも去年の10月から毎日更新を続けているが、腰を上げるのが重い時もあれば軽い時もある。なんなら明日以降の2.3記事の下書きまで書き終える時もある。多くの場合、腰を上げるには多少のエネルギーを感じる。そこに一つ壁があったり、それを越えるための自分なりのコツやスイッチがある。(コツやスイッチはまだまだ模索中。)

そうして習慣化が進むと、それに必要なエネルギー量が低下していって、もはやエネルギーを消費していないくらいの境地になるのだと思う。例えば毎日の歯磨きなんかもそうだと思う。

少しエネルギーの話にそれたが、何を言いたいかというと


「言い訳せずに自分ができることに集中します。」


ということ。それだけです。今日もお付き合いありがとうございました。



ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^