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月間レビュー(2024.10)|応答ではない内発的な創成

論考の執筆に挑戦していたこともあって基本的にゼミ室の椅子に朝から夜まで座る日々だったが、常に脳内で思考を巡らせた1ヶ月だった。何となく考えたことを思考の発散としてDiscordの個人チャンネルなどにとにかく連投していた。それと同時に9月下旬からWithvac代表・宮田さんとの1on1を毎週行うようになった。事前に「今週取り組んだこと、考えたこと」「来週取り組むこと、その目的」「精神面の悩み」を事前にシートに記入して共有・質問し合う。相手に説明することで目的意識が整理され、思考の深度も高められる重要な機会だと思う。何というか、毎週の1on1とはかなりモダンな手法なのかもしれないが、単なる近況報告ではなく、もっと自身の不完全な点を客観的に伝えてもらったりだとか、逆に自分が相手に要望を伝えたり率直に問いを投げかけたりするための1on1としてさらに実りある時間にしていきたい。
密かな夢は、色々な人と東大本郷キャンパスの三四郎池にあるベンチに座って水面や木々を眺めながら1on1をすることである。なぜなら川や海をずっと眺めて育ってきた田舎育ちの経験上、その方が自然とどんな言葉でも交わせるようになるからである。ちなみに最近は気分転換に三四郎池の周りを散歩したりベンチに座ったりしていることが多いので、一緒に行ってくれる人募集中。

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ASIBA ATLAS#01では久々にASIBAのメンバーに会って話すことができた。
新たに発表されたASIBAのステートメントは自身の気が引き締まるようなものだった。特に「Our Personality」の一つとして示された「Playfull / 遊び心」は自分にも、社会にも欠落した大きな要素であることは間違いない。建築が持つクリエイティブな側面を分野横断的に展開していくことを今後野心としていきたい。久々の再会、新たな出会いに恵まれた時間だった。

鬱の2023年。今年の前半も精神的な面でそれを引きずってしまっていたが、ASIBA2期での活動を通してそれを自ら断ち切るための決意を掴み取ることができた。特に2023年3〜7月のあらゆる挫折は自分がこの世界を生きる目的を見えなくさせるものだった。別に自分は頑張らなくて良い、こんな自分、こんな世界ならどんな失態も正当化して良いだろう。環境問題がいくら深刻になっても、自分の周りに涙を流している人がいても、何も自分には関係ない。まるでリバタリアニズムの究極を体現するような人生を歩もうとしていた。
ASIBA2期のどのタイミングで気力を取り戻したのかはっきりと思い出せない。でも、正義感をひたすら振りかざしても当然何も変わらないこと、自分でものを創ること、自分の言葉で何かを伝えることでしか何も変えられないことを真に理解することができた。まぁ当然だろうと思われるのは重々承知だが、人生最大の挫折を経験した上で改めて掴み取ることができた決意だった。実際に大学外で足を動かしたこと、言語化が足りていないと先輩に喝を入れられたこと、ASIBA FESの一幕を自分で企画したこと、敬愛する先輩の思想に直に触れられたこと、これら一連の経験を通して思考した果てに実感したものだった。

7月中旬〜8月末までの院試勉強期間(あのク◯ゲーは2度とやりたくない)、それが終わってから2週間ほどの休息期間もあってWithvacでの活動が一時ストップしてしまっていたが、少しずつ復帰して活動することができている。Withvacのビジョンだけでなく、組織として何ができるのかアセットを今一度整理すること、またそれを個々人が円滑に発揮するためのPMが必要である。自分はまだまだ勉強不足なので足を動かしつつ場合に応じたインプットを意識して活動していきたい。

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OpenAの馬場正尊さんと共演させていただく機会があった。
自然と都市の融合、人ではなく生物中心のデザイン、持続可能性、……このような言葉が謳われるようになった都市の今後のあり方について著名な方々と議論した。馬場さんが、都市計画の初期段階から運用・維持段階までにおける「市民がコミットできる余白」を強調していたのが印象的だった。建築・都市領域においてボトムアップ的な動きをもっと生み出していく必要性については疑いようがなく、馬場さんの言葉を借りるとofficialではなくpublicを。という考え方は本質的である。議論の中で出てきた「What makes the great place? 素晴らしい場所の条件」は専門家の議論で完結させるのではなく、それぞれの場所で正解を生み出しでいくものではないかという自身の意見に馬場さんも共感を示してくれた。しかし一方で、日本は制度設計に関するトップダウン手法の問題点があまりにも多すぎるので、まずはそちらの改善が必要だと考える。また、議論の中でスマートシティ批判が表層的なものに終わってしまったことは反省点であるし、Withvacの思想に紐付けた提言もできることならしたかった。
馬場さんも著書の一人である『パークナイズ 公園化する都市』を馬場さんから頂いた。OpenAが手掛けた有楽町のSlit Parkを以前訪ねたことがあったり、また同じくRegenerative Community Tokyoに以前から関心があったりもして、馬場さんとの出会いは光栄だった。

馬場正尊さんと…!

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HAGISOの建築夜話に立ち寄った。心が満たされる対談だった。

建築を志す者たちが自身の作家性を実体として表現するための障壁を乗り越えるためには、単純に「お金の話」を理解する必要がある。当然大学の授業では全く触れられない事業収益や実現性についての知見を深めることを目的としていたが……対談を通して考えさせられたのは「数字」ではなく「感性」という名の数字に表せない変数だった。
数字を用いた手段、合理性・新規性を追求した問題解決プロセスの果てに自分は何を望むのか??周りから評価されること、純粋な承認欲求だけなのか?
ガウディは今も人々の記憶に残り続けていて、彼の魅力や功績は今でも論じられている。ガウディが後世に名を残したいという欲求を持っていたのかはさておき、いくら現代の人々がガウディを称賛しても、いまガウディの描いた世界になっていないのであれば……??
人間は数字で表される変数を好むが、新たな変数を取り入れることができるのが人間であり、強力なAIに覇権を握られようとしている今こそ数字にできない変数、人間だからこそ持てる感性をもっと発揮していきたい。「共創」とか「SDGs」とか「ウェルビーイング」とか自分ではない誰かが作った言葉で未来を語ろうとするのではなく、自分が社会に残したいものは何か?自分は何のために生きるのか?これらの問いに真摯に向き合っていくことを忘れたくないと強く感じた。(学びが多すぎたのでまだ整理中)

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10月後半のほとんどの時間を論考の執筆に充てていた。産業革命よりも遥か昔、農耕社会の時代から現代に至るまで、単なる機能として建築を支え続けてきた建築設備を起点とした社会へのアプローチ、内発的な価値創出を提言する論考の執筆に挑戦した。これはWIthvacの根源的な思想を改めて明確にするための機会でもあった。書籍・雑誌は十数冊ほど目を通して、先輩や同期への相談も繰り返し行なった。
しかし論考を出し終えたものの、内容としてはあまりにも不完全燃焼だった。背景とロジックを精緻かつ明快に文章として示すことができた一方で、その具体的な形や手法、社会での実践に向けた記述を最後まで明確にすることができなかった。自身の文章力不足と、周囲から指摘され続けた全体構成の不明瞭さを含めて非常に悔しい出来となった。Withvacのビジョンを改めて整理した点、またASIBA FESの前に今回の論考とほとんど同じ題材で記事を投稿していたが、それと比較すると遥かにロジックを整理できていた点は良かった。論考に関しては後日修正を加えて投稿しようと考えている。

また、論考の執筆を通して自身についての気づきを得ることができた。

やっぱりハイテクの設備も、ジュリアワトソンみたいなLo-tekな土着建築も、両方やりたい。てかどっちかに偏った思考の人が多すぎる。ちょうど真ん中みたいな設計者はありふれてるけど、両方とにかく深い部分まで、両方の端から端までのスケールを横断的に捉えて環境と建築を考える人間が世界で見ても少なすぎる。し、そうしないと設備にしてもそれ以上のことが見えてこないのでは。自分がこれやるしかないと思った。

2024/10/23

文章を書くことをまだまだ諦めたくないしもっと挑戦していきたい。坂口恭平さんの『躁鬱大学』に自分が救われたように、文章を通して自分も誰かを突き動かすことができるまで諦めたくないと思った。
書籍・雑誌をひたすら読んでいた時間は別として、論考の執筆に1日の長時間を充て続けることも振り返ると無謀だった。日頃からの思考とアウトプットの量が前提にあると思う。

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寝食を忘れるぐらい没頭できるような、それが好きな理由を人に問われても説明不可能なぐらいの内発的な「狂気」。自分の中にはそんな狂気が明らかに存在しない。大学では設計演習や座学をほとんど投げ出して環境とか設備の分野に入り浸っているので、学科同期からはある種の狂気を自分から見出されていたことを知った。しかし自分にはそれが狂気と呼べるものではない気がしている。これまでの世界を変えてきたものも、これからの未来を変え得るものも全て内発的な狂気が起点になっているのではないか。

このツイートを見て安心したというか、自分たちがやろうとしていることは間違っていないとただ安堵する自分に正直期待が持てない。自分がいないような、自分以外の主語に基づいているような空虚な存在だと認識する。
時には周囲の意見に流されず、耳を傾けないぐらいの姿勢を貫きたい。今の自分に最も足りていないのはその姿勢である。これまで出来ていないならもう不可能かもしれなくても、そんな姿勢を半ば強制的に演じようとすることを実験的に行いたいと思う。
とにかく手を動かして、社会に対していつまでも応答の姿勢を演じるのではなく、そして必要不必要を一人で判断してしまうことがないように。これは、自分自身が設定した目的に対する最適化人間にならないためでもある。

Connecting the dots
You can’t connect the dots looking forward;you can only connect them looking backwards.
So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.
You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever.
Because believing that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart.
Even when it leads you off the well-worn path, and that will make all the difference.
前を向いて点を繋ぐことはできず、後ろを向いてしか点を繋ぐことはできません。
だから、あなたは点と点がなんらかの形で未来に繋がると信じなければなりません。
あなたは何かを信じなければなりません、直感・運命・人生・業・なんでもいい。
点と点が繋がることを信じることは自分の心に従う信頼がつくからです。
例えそれがあなたを道から外してしまっても、それがすべての違いをつくることになるでしょう。

Steve Jobs, 2005.

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研究室のB4メンバー4人での打ち上げで初めて深く話せたこととか、高専の友達に久々に会えたことも含めて有意義な10月だったと思う反面、精神面は少し安定していなかった。あとは「選挙に行くなんて自分の時間を無駄にしたくない」という友人の発言が忘れられなかった。これからの日本社会を……という主語が大きな議論にしなくても、自分だけじゃないもっと家族とか好きな先輩とか大切な人のために、自然に体が突き動かされないのかとか……自身が一方的に負の感情を抱いてしまったが、もっと建設的な対話をその後に求めるべきだった。

11月は卒論の執筆とWithvacのPJがメインとなる。卒論は半分放置してしまっていたし、修士にかけて一貫したテーマとして研究内容を選んだので、序盤の内容で一旦完結させる必要があることにどこかモチベーションが湧かなかったが、とにかく手を動かすこと、「狂気」を纏うことを実験的に検証するために、自分の身をその領域へ投げ出してみようと思う。


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