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他者を受け入れるために-自分が民族誌映画から掴み取るもの

終わりゆく世界。
時間の流れが早すぎる現代社会では、毎日膨大な情報の波を浴びせられ、Twitterを開くと画面の中で様々な口論が繰り広げられる。個人的に昨年は多方面で疲弊した年でもあった。

今この世界が、そして自分が必要とするものは何なのか。それは「他者を受け入れる」ということ、そのために自分という存在も他者という存在も、その二項対立すらも乗り越えて、「自分と他者の境界を無くす」ことではないか。自分も、この世界も、その境界を無くすことを自らの意志で実践できていないからこそ、この惑星が終わりゆく様子をただ眺めることしかできないのだ。

今回、あまりに突発的だが、他者を受け入れるということについて自分の感覚で確かに理解するために、映像人類学の分野に位置付けられる「民族誌映画」からそのための何かを掴み取りたいのだ。
19世紀後半に映像技術が誕生し、当時重量400kgを超える撮影装置がカメラとして軽量化されるようになると、それを自分の国の外へと持ち運び、フィールドワークの記録として撮影されるようになる……。このような民族誌映画の「種子」となり得るものを探り、それらが萌芽してゆく歴史に目を向けてみたものの、どうやら「民族誌映画」は明確な姿・カタチを持たない無色透明な存在らしい。
それよりも、そんな無色透明な存在としての民族誌映画が、今を生きる我々に何をもたらしてくれるのか?……いや、そんな受動的な姿勢ではなく、我々がこの世界を生きるために、「民族誌映画」として映し出されるフィルム、そこに秘められる芸術性・意味性から何を掴み取って未来への歩みを進めていくのか?この問いと誠実に向き合いたい。

ところで最近の自分は、理系の研究室で椅子に座ってモニターに映る数式と睨み合う日々を送っている。人類学に関しては何も分かっちゃいない。映画に関しては、膨大な大学の課題に忙殺されて逃げ出したくなった時とかにふらっと映画館に立ち寄って、コンテンツとして映画作品を消費するただのオーディエンスである。
こんな自分が急に民族誌映画について語り出すことを一度だけ許して欲しい。民族誌映画から「他者を受け入れる」ということそのものについて考えていきたいのだ。

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これまでにいくつかの民族誌映画(とされるもの)を鑑賞したが、人類学の研究に用いるための資料としてではなく純粋な映像作品として向き合うと、他の映像作品と比較して間違いなく特殊な作品だと言える。民族誌映画で見られる不自然かつ断片的なカメラワークは、例えば被写体としての先住民の顔部分だけを一定時間映し続けてその時どういった動作を伴っているのか、観る者の想像力を掻き立てる。また、ノーカットで長回しに撮影されたシーンは、何故制作者はこのシーンを撮影しようと考えたのか、何を伝えたかったのか、必死に思考を巡らせるがその言語化を不可能にさせる感覚が意図的に創出されているようだ。ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ベレナ・パラベル(2012)『Leviathan』はある意味自分を混乱させた。「これは民族誌映画なのか?ドキュメンタリー映画とは何が違うのか?」という疑問が生じるがそもそも民族誌映画とはそういうもので、これという実態を伴うものではなく、どこか"実験的"だ。
また他にも「儀礼のワンシーンをカメラに収めたいから今からそれ(儀礼)をやってくれ」と撮影者が指示を行ったりであるとか、なんなら映画としての「映り」を最大化するために架空の家族構成でキャスティングを組んだりすることもあるらしい。このようないわゆるステージングが民族誌映画においても取り入れられているのは新鮮な発見だった。

各作品の要所要所で見られるステージングの存在は、「人類学の研究対象として用いられる民族誌映画はリアリティをただひたすらに追求するべきではないか?」という前提、ある種の問いを我々観る者から内発的に生じさせる。
民族誌映画はリアリティを突き詰めるべきだと錯覚していた自分は、ステージングという存在の受容に少し戸惑ってしまったのが正直なところである。しかし、この錯覚から新たな光を見つけ出すことで何かを得られるかもしれない。

「民族誌映画の存在価値とは、テキスト単体からは感じ取れないような、視覚以外の身体感覚の自由自在な操作を観る者に促すための記録として、後世に残していくことなのか?」

民族誌映画にはリアリティが求められるべきだという思想について、ジャン・ルーシュは、そもそも撮影者と被写体との間におけるカメラの存在自体が現実と映像で映し出される世界の乖離を生み出してしまうと指摘した。両者の間にカメラが存在するだけで時空が歪んでしまうのだ。
また、エドワード・サイードは学術研究において「他者」という存在が実態を伴わずに誇張されてしまう危険性について言及し、ジェイムズ・クリフォードは次第に自分の出身地域で「自文化」を研究する流れを作り出した。リアリティを求めるということだけではない、そもそもカメラで映し出すことによって他者が本来とは違う何かに置き換えられてしまうリスクが常に共存していることを先人たちは指摘し始めるようになった。

以上のような民族誌映画というフレームの中で映し出される(あるいは表現される)他者という存在についての議論の行く末を見守れば、ある種の必然性を伴ってその未来は決定される。
そう、我々からは遠く離れた場所にいる「彼ら」自身で「彼ら」を撮影すれば良いのだ。そうすれば遠くからやってくる言わば「他所者」が彼らのリズムを乱すことは無いし、ジャン・ルーシュが指摘したようなカメラの介在による時空の歪みが発生することもほとんど無いだろう。
そしてどうやら映画界でこの動きは加速化しているようだ。民族誌映画を撮る者の視点で、彼らにカメラを向けることで「自分」と「他者」という二項対立の関係が生じることで、どうしても他者を撮影することは困難になってしまう。だから「彼ら」が「彼ら」自身を撮る。「他者」が「他者」自身を撮る……。

メキシコの映画監督・Xun Seroは自身の母親をカメラで撮影することを通して、家族内の関係性や男性優位主義について深く掘り下げた。

しかし、このような「自分語り」の動きが加速化する中で、今この世界で最も必要とされている「他者を受け入れる、他者を理解する」という姿勢は存在しているのだろうか。民族誌映画における作者の主観が徹底的に排除されてしまうことで、観る者はその映像作品から他者を受け入れるということを見出すことができなくなる。

他者を理解したいし、自分たちと彼らの間に引かれた線を取り払いたいという撮影者の努力、そのプロセスを収める過程にこそ、民族誌映画の真価が秘められているのではないか。民族誌映画を研究のための資料として用いようとするのであれば、どうしてもリアリティが追求されて「他所者」がカメラを持ち込むことに対してネガティブな意見が寄せられてしまう。しかしそうではない。民族誌映画は間違いなく今この世界に必要な視座を与えてくれる。そして観る者はそれを掴み取らなければならない。

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結局のところ、民族誌映画に他者理解を見出したいというパッションを抱くということは、自分が今もつ感性を最大限に発揮して、民族誌映画から何かを掴み取りたいという姿勢によって導かれるものではないか。作品を前に、受動的な姿勢であり続けたくないのだ。

民族誌映画に関する議論は結局のところアカデミアでのアウトプットに帰結してしまう恐れがあり、民族誌映画をプラクティカルな実践へと発展させていくのは一筋縄ではいかないのかもしれない。しかし、アカデミアのアウトプットに留まってしまうのかどうか、その未来を握るのはまさにオーディエンス一人一人である。
視覚だけに頼って本を黙読して満足するんじゃない。地球の裏側、足を踏み入れたこともない地域に住む人々を、美しいこの世界をまずは「民族誌映画」を通して理解したい。その想像力を磨きたい。
自分とか他者とか、我々とか彼らとか、そんな二項対立を乗り越えたい。そして、自分という小さすぎるフレームなんて外してしまいたい。そんなフレームに囚われるから他者を理解できない。自分と他者という明確な二項対立を築き上げてしまう。
日常生活においても、約束を守ってくれない人や、連絡をちゃんと返してくれない人に怒りの感情をぶつける前に、直接話したこともない遠い人間に疑念の目を向ける前に、まずは自分というフレームから脱却するのだ。そうすれば他者を受け入れるということすらも超越できる。

本当にそれで大丈夫なのか?他者を理解できるのか?おそらく大丈夫だ。民族誌映画を通して先人たちが映像に収めてくれた人たちは、自分にとって想像もできない文化や暮らし方をしているけれど、今を生きるということに真摯に向き合う美しいあり方を感じさせた。


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