努力と才能について私的考察

 努力と才能という言葉の正体を昔から考えていた。才能とは肉体的なアドバンテージのことなのか?それとも偉大なる結果か?努力とはなんなのか、スポーツのドーピングは努力じゃないのか?言葉という物事をグッと省略するためのツールがさらに努力や才能といった概念に名付けられさらに抽象的になってしまっている。
 努力と才能は対比されて使われることが多い、そして実際相反するものだと感じる。その対比とは情熱と論理であり、ミクロとマクロであり、収束(集中力が高く秩序的で伝統的な思考体系)と拡散(集中力が低く乱雑で創造的な思考体系)である。私は集中力の高い人間は努力思想になりやすく、集中力の低い人間は才能思想になりやすいと思う。
  集中力の高い人とは情熱的であり脳の前頭葉というコンピュータのCPUのような部分が直ぐに1つのことに90%以上の使用率を出力できるハード(肉体)を持つ人のことだ。集中力低い人間は何か90%を出力しても他のことに気を取られるとすぐに他のことにエネルギーを取られてしまい使用率が下がってしまう。そのような集中力の低い人間は情熱というクオリアを体感しにくく努力を継続し続けることが難しいため論理による解決を好む。何か物事をやる時にめんどくせえな、どうやったら効率よくできるのだろうとすぐ考える人は論理的で創造的であるが集中力は低く努力に難があり達成能力が弱い。
  CPU使用率が低いため何か一つのことをやってる時に論理やニヒリズムが介入したり他の考えが侵入してくるので点と点を結びつけやすいことが集中力の低い人間が論理的で創造的になりやすい要因であろう。
 そもそも何かに必死に情熱的に取り組んでる時にめんどくさいという気持ちや効率(論理)が介在してくる余裕はない。
 さてこのような努力才能論が巻き起こると直ぐに極論に走る人はいる。人生は努力でどうにでもなるとか才能が全てだとか。本当は情熱と論理のどちらも同じくらい大切だと気づいてるはずなのに。私は才能に偏りやすく、良くいえばマクロ的で論理的なのだろうが油断するとニヒリズムに支配されやすい。昔からずっと論理さえ整えれば頑張らなくても何か果たせると考えていた。
 しかしながら最近やっと情熱を主体に動けるようになった。私と同じタイプの、努力や全身全霊といった体育会系の感情論が嫌いな人に良い考え方がある。人間の脳は様々な部署が組み合わさり統合的に意識を発生させている。部署は個々が様々な判断を下すため、油断するとすぐに気が散るので強い意志と気持ちを持ってまとめる必要がある。そしてそれは神経伝達物質を媒介とする明確なクオリアを有する、目標に向かって攻撃的な脳の姿勢、それこそが情熱なのだ。体育会系の言うそれら言葉は形而上のものでなく明確にこの世に存在する論理である。そう、私が敵だと疎んでいた相手は友だったのだ。今こそ恥ずかしがらずに言おう、物事はココ(頭を指さして)では無くてココ(胸を叩いて)でやるのだ。情熱に論理は着いてくるが論理に情熱は着いてこないのだから。

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