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承認欲求から解放してくれる海外MBA

大変興味深いことに、最も読まれている記事ではないながら、海外MBA受験生と直接話した際に最も更問を受ける記事及びその部分が、以下の記事の「私がIESE MBAに行って、そして卒業して本当に良かったと心から感じることの1つが、承認欲求からほぼ完全に解放されたこと」という部分です。

今回は、この点について深掘りしてみます。

なお、こんな記事を書いている時点で承認欲求があるだろうというご指摘もあるかと思います。

前述の記事でもちゃんと含みを持たせていますが、「完全に」ではなく「ほぼ完全に」承認欲求から解放されたと記載していますので、一応そのご指摘を多少は受け入れる姿勢を既に示しています。

その上で、ここで言う「ほぼ完全に」は、自分の感覚では95%程度です。

わずかな承認欲求以外でこの記事を書くことを決断した背景としては、以下の通りです。

  • 暫く記事を書いていなかったので、一応、生存報告をしておこうと考えた。

  • ちょうどIESE(イエセ) MBA Class of 2024の卒業式があったタイミングで、自分自身の卒業式で考えていた内容に思いを馳せた時に記事たり得る思考の整理ができた。


承認欲求からほぼ解放されたタイミング

95%に至った厳密なタイミングを振り返ってみると、IESE MBA合格でも入学でも卒業でもなく、今の仕事を始めて一定程度軌道になったタイミングであると言えます。

つまり、少なくとも自分の場合は、IESE MBA合格自体も大変重要なマイルストーンであったながらもその時点では不確実な将来への展望がおよそ明確になったタイミングであると言えます。

誤解を恐れずに言えば、海外MBAの中でどの学校に入学するかよりもどのキャリアを卒業後選択するかの方が人生における総合的な重要性は大きいと思っていますので、その思考回路とも合致します。

MBA入学審査を担う人間の発言としては一見問題発言とも捉えられ得るものですが、私はキャリアサービスも担当しているので、総じて何ら問題ない発言と確信していますし、事実、一人の卒業生としてもそう感じます。

もちろん、卒業後のキャリアは大なり小なり入学する学校に影響されるという前提は否定していません。

承認欲求からほぼ解放された人間の行動様式

承認欲求からほぼ解放されると自分主体で人生を考えて動かせるようになるのは当然の帰結です。

例えば、私の場合は人生において現時点で絶対に大事にしたい優先事項が4つあります。

これら4つは、IESE MBA卒業前までに確立されていた内容ではなく、承認欲求からの解放に関係しています。

その4つのうちの1つは、「よく寝て、美味しいものをよく食べる」です。

言い換えると、寝食を惜しんで仕事に邁進するような状況や美容や体作りなど特定の目的のために過度に食事制限する状況など微塵も望んでいないということです。

それ以外の3つの優先事項のうち、1つのみが仕事についてで、残り2つが仕事以外についてです。

これら3つが承認欲求とは無関係であることは断言しますが、実際にそれらが何であるかを本稿で明かす気は一切ありません。

その理由は、この記事が不特定多数の読者に読まれることを想定すると、これら4つの優先事項全てをここで明かすことは、それらを自分(及び自分に限りなく近い外的要因)以外のいかなる外的要因によっても切り崩させないという、ある意味5つ目の優先事項に矛盾するからです。

実際にこれら3つを守るために、過去数年、一部の外的要因と激しく戦ったこともあります。

こうして優先順位がはっきりすると、それにそぐわない指摘への関心も薄くなります。

例えば、私の場合、誰もが知る、日米で活躍し殿堂入りした数年前に引退済の某野球選手の人生についての複数の格言がそれに当たります。

どんどん自己中心的な人間の発言としての色が強くなっていると感じる読者の方もいるでしょう。

しかし、承認欲求からほぼ解放されていると、たとえ自己中心的と見られようと、文脈にはよるものの、あまり気にならない状態になっています。

ちなみに、これら4つの間での重要性の割合と細かい中身は年齢を重ねるごとに少しずつ変わってきている印象もありますし、今後どう変わるのかやや読みきれないところもあります。

但し、その均衡と細部を調整する主体を常に自分(及び自分に限りなく近い外的要因)とすることは心に誓っています。

承認欲求からほぼ解放された人間の行動様式について更に言えば、中身に関して自分が制御できない形で自分に関しての内容が外部メディアに掲載されることへの拒絶感が増します。

闇雲に自分の知名度が世間で高まればいいという考えがなくなっているとも言えるでしょう。

既述の激しく戦った例とは毛色が違いますが、実際、これに関しても戦った経験があります。

反例から考える、承認欲求から解放されることの効用

IESEではない方の私の母校の学生で、某コンテストで優勝し、起業したり、グラビアアイドル/タレントになってみたり、将来的なキャリアとして国際連合を目指してみたり(と少なくとも公言して)といった方がいることを認識しています。

わかる人にはわかる形で事実上半特定しているかもしれませんが、ここまで書かないと例として通用しないのでご容赦ください。

私はその方と現時点で直接的な関わりはありませんし、特別な感情もありませんが、例として適切なのでここで取り上げています。

なぜこの方が反例としてみなせるかというと、仮に国際連合を目指すことを主たる目的に据えるなら時間の割き方を見直すべき状況に映るからです。

SNSの使い方やそれに割く稼働もその一部と言えるでしょう。

見聞きする情報から判断するに承認欲求によって突き動かされている側面はこの方の場合相当強そうですし、それを本人も一切否定していない印象です。

私はその事実によってこの方を見下す気もなく、説教する気もなく、ただ明確に自分と著しく乖離した思考回路と行動様式を取る方だと区別しているのみです。

また、前提として、対外的なメッセージはさておき国際連合を目指すことを真に自身の主たる目的に据えているのかも私にはわかりかねます。

まだ社会に出ていない状況に近い学生の不確実な将来に向けたリスクヘッジも兼ねた行動としては合理性も一定程度ありますし、何よりそもそも何も行動していない学生とは雲泥の差です。

いずれにせよ、この例から述べたかったことは、承認欲求に基づいて行動すると時間的浪費も含めた人生の回り道が増える可能性が高まる反面、良いか悪いかはさておき、承認欲求に基づかなければ逆の状況を具現化できるということです。

SNSの話を少し出しましたが、非常に細かな話で言うと、私のLinkedInの投稿は、ほぼイベントの事前告知です。

目的は承認欲求とは一切関係なく、集客と関係者(例えばイベントをする国にいる卒業生や出身在校生)への仕事をしていることの証明です。

事前告知でないものもごく一部ありますが、それは明確な意図を伴った例外です。

それに対し、LinkedIn(あるいはFacebookやInstagram)では事後報告についての投稿を見かけることも少なくありません。

事後報告についても色んな種類・思惑があることは承知しています。

但し、一例として、心理学で言うところの栄光浴というものが私は限りなく薄いです。

それゆえ、例えば特定のイベント会場で世間的に権威とされる人と写真を撮ってその状況を報告するような投稿をいかなる媒体でもすることはありません。

栄光浴は平たく言えば、「俺(私)、あの人(有名人)と知り合いなんだよね」と言って、「えー、ウソ、すごい」という反応を得て、自己肯定感を引き上げようという行為・願望のことです。

そういうことをしている方を毛嫌いすることはありませんが、先程の理屈と同様で、私と違う人種の方と明確に区別しています。

(なお、私は「えー、ウソ、すごい」という反応を演技でもできないしたぶん人生で一度もしたことがないので、多少なりとも演技派になる努力が必要なのかもしれません)

いずれにせよ、栄光浴を背景としたこのようなSNS投稿をすることは、前述の、私が人生で大事にしたいことの4つのどれにも該当しません。

自分が登壇者でもなく仕事への直接的な付加価値も限定的なのに、名だたる登壇者が参加する国際会議(使用言語: 英語)に行って、そこで議論された内容を学びとしてLinkedInで投稿するような行為も同様です。

自分にとっては写真撮影のためにその場に出向き写真を撮る前後全てを含めて、時間の浪費にしかなりません。

承認欲求が弱くなることの課題

少なくとも自分の場合、承認欲求が弱くなることのメリットはデメリットを明確に凌駕していますが、課題がないわけではありません。

承認欲求が弱くなったことによって人生における自分の爆発力も弱くなったことも事実です。

GMAT700点以上を目指して勉強していた(最終的な結果もちょうど700点)頃は、自分自身が達成可能な目標であることを証明してやるという自分との戦いとしての色が強かったながらもそれを周囲にも証明してやりたいという思いを一定程度伴っていたことも事実です。

今現在、当時よりも英語運用能力が高いのは間違いないですが、あの頃のように、何かに取り憑かれているかのごとくGMAT対策に邁進できるか、そして同じかそれ以上の結果を残せるかは大いに疑問です。

実際、既述の4つの優先事項に照らして、人生でいかなる試験も二度と受けることなく逃げ切りたいというのが本音ですし。

また、完全になくなったわけではない爆発力はもう少し別の使い方に転用したいとも思っています。

したがって、承認欲求が弱い状態が一概に正当化されるべきなのではなく、承認欲求が弱まっていく過程とその背景にある内容こそが本質と言えるのだとも考えられます

海外MBAと承認欲求の関係性

では、海外MBAを卒業すれば承認欲求から(ほぼ)解放されるかというと、可能性は高まるが個人差が大きいし、それまでの人生の軌跡の影響(他の側面でどの程度マイルストーンを達成してきたかなど)も大きいし、卒業後の仕事の性質にもやや左右される、というのが実態でしょう。

実際、私の感覚値と基準で、承認欲求からほぼ解放されている海外MBA卒業生の割合は、学校問わずで、5割に絶対に達しているとは言い切れないという程度の印象です。

しかしながら下品なまでに承認欲求を振りかざした海外MBA卒業生に出会うことは稀(*)ですし、それは海外MBA卒業に伴っての自己肯定感に裏付けられたものかもしれません

(*「稀」と書いた背景にはゼロではないという考えもあることを示します、どういった方がそう映るのか一定の傾向を感じ取っていますが私がここで書くにはあまり相応しくないと感じているということから何となく察していただけると幸いです)

なお、私も多少そうだったので他人のことを偉そうに言えませんが、海外MBA在校生の場合は必ずしもその限りではなく、多少下品さを感じることがないわけではないので、やはり卒業がマイルストーンとして一層大きいのでしょう。

海外MBAは出願準備段階も含めてその高額さゆえに、費用対効果の面で懐疑的な目線を向けられることがままあります。

それでもこの高価格帯で海外MBAがある程度ビジネスとして成り立ってしまう背景はいくつかありますが、そのうちの1つが人間のコンプレックスに巧みに踏み込んだビジネスであることです。

実際、海外MBA以前の私も、海外で教育を受けたことがないというコンプレックスを解消したいという思いをそれなりに強く持っていました。

このコンプレックス解消の価値を数値化することは不可能だし、適当に数値化して他人に理解させることの価値も可能性も限定的だし、何よりその価値を享受するのは海外MBA卒業生自分自身です。

海外MBA卒業生でない他人にこの観点からその価値を納得させることが不可能な時点で、承認欲求から一歩離れることになります

別の話で逆の発想からですが、若い時に異性からモテなかった方が歳を重ね社会的地位が好転すると、錯覚も含めモテるようになり行動様式上こじらせて(場合によっては世間を騒がせるまでに至って)といった話は、昔からよく聞く話です。

ここからの学びとしてあり得るのは、自分のコンプレックスは可能なら早めに解消しておくにこしたことはないということで、それは海外MBAという文脈にもすっぽり当てはまることでしょう。

そして、完全なものではありませんが、承認欲求とコンプレックスの間には表裏一体に近い関係もあると考えられることもここでのポイントの1つでしょう。

まとめ

私自身の描写について自己中心的な描き方をしすぎてしまったかもしれないので、念のため多少きれいにまとめて保身をしておきたいと思います。

第一に、承認欲求からほぼ解放されると言っても、傍若無人になりふり構わず振る舞う状態を示すわけではありません。

空気は(ある程度)読めるしそれ自体は人間関係上においても大事なことだけれども、実際に空気を読むかどうかは状況次第ということです。

第二に、人生における優先事項の4つのうちの1つは仕事に根ざしていると指摘しましたが、その仕事の意義を他人に殊更に強調しなくても自分がその価値を深く理解しており、そんな仕事は海外MBAという素敵で特別な経験があったからこそ得られている、という点です。

承認欲求から(ほぼ)解放されている状態を全肯定していいかは議論の余地があります。

しかし、少なくとも28歳入学30歳卒業でIESE MBAを通過した私の30代の職業人・個人としてのここまでの旅路は、それなしで想定される30代の旅路と比べものにならないほど大いなる充足感を伴うものでした。

その充足感の根源は、承認欲求から(ほぼ)解放されている状態です。

ということで、本日は海外MBAの数値化し難い価値を承認欲求と絡めて考察しました。

今後、海外MBAを検討される方にとって多少なりとも新鮮な目線に、そして場合によっては海外MBAへの動機を深めるきっかけとなっていれば幸いです。


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