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YS 1.26 厚みと重み

イーシュヴァラについての記述が続くヨーガ・スートラ。前回のスートラでは、私たちにも内在している全ての知の種が、完全に花開いているのがイーシュヴァラだということでした。さて、今回のスートラはどうでしょうか。

※前回分は、こちら『YS 1.25 知るということ』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章26節

पूर्वेषाम् अपि गुरुः कालेनानवच्छेदात्॥२६॥
sa pūrveṣām-api-guruḥ kālena-anavacchedāt ॥26॥
サ プールヴェーシャーマピグルフ カーレナーナヴァッチェーダー

彼は、時間によって制限されないがゆえに、太古の師たちにとってさえも、師である。(2)

全ての知の種が備わっているとはいえ、『自分自身の知を知らしめてくれる”誰か”が必要である。』と解説するのは、インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(文献 (2) 以下、インテグラル・ヨーガ)です。学び経験していく過程を、ガイドしてくれる師、またはグルがいたほうが良い。その方々にも、それぞれ師やグルがいたわけで、それをどんどんさかのぼっていくと、その根源にいるのはイーシュヴァラだよ、というのが今回のスートラです。

フォーチャプターズ オブ フリーダム(文献 (1) 以下、フォーチャプターズ)は、人間は意識がかたちに現れている状態で、イーシュヴァラは意識の最高位であると、その違いの確認から解説が始まります。人間は、どう生まれるのか、人間や動物またはそのほか何として生まれてくるのかなどの変化を経て生死を繰り返してゆき、最終的に進化の最高点にたどり着いたとき、精巧で高次な(finer and higher body)身体をもって生まれてくると言います。しかし、そのどの段階にあったとしても、かたちに現れていることによって生死や時間にとらわれてしまうので、かたちを成さず、そのどれからも自由なイーシュヴァラは、グルのグルだということです。


インテグラル・ヨーガの解説を、もう少し紹介。ヨガをするとき、おおこれできたとか、ああこれできないとか、考えることはあるでしょうか。インテグラル・ヨーガは、『「私は~できる」という思いが全て「私は、できない」になる必要がある。』と書いています。

自分の本質であるプルシャ〈見るもの〉は、さまざまな心や感情の揺れの中にあっても、それを見ているだけで、変わらずにあるものでしたね。だから、できる・できないに気持ちをとらわれてしまう時、〈見るもの〉である自分を忘れ、プラクリティ〈見られるもの〉の一部になってしまうわけです。そこで、インテグラル・ヨーガがすすめるのは、『「私は何もできない。それをするのは〈あなた〉です」』と言うのだということです。『無上の喜びは、完全な献身によって自然の息を超えて初めて得ることが出来る。そのときあなたは、自然を超越し、〈神〉を、その超越的状態において理解する。超越してしまえば、自分が自然に巻き込まれていなかったことがわかる。大きい小さいはあっても、自分はまったく自由で純粋なのだということが。』と続きます。さあ、どうでしょうか。
(ここで書かれている自然は、プラクリティをさすと考えます。)


とにかくまずは、実際にその考え方を使ってみましょう。何かについてできる・できないと思った時に、「私は何もできない。それをするのは〈あなた〉です」と心の中でつぶやいてみて、それでどう感じるかを観察する。思うところがあるなら思えばいいし、変わるなら変わるに任せるもいいし、いつものパターンに戻るならそれもよしで、まずはやる。

ここでしっかり強調しておきたいのは、とにかく全部を放り出そうぜということではないこと。たとえば、トリコナーサナ(三角のポーズ)でしっかり股関節が開かないなと思った時に、そのできないと思ったことを〈あなた〉に任せるとしても、自分は自分でちゃんと立っている必要があるわけです。もしくは、瞑想をしようと思って全然集中できないなと思った時も、座っておくことは必要。イーシュヴァラへの帰依は、サマーディへたどり着くのを早めるのであって、ヨガが、アビィヤーサとヴァイラーギャ、つまり敬意をもって練習・実践を継続することと、欲を手放すことをせよと言っていることに変わりはないのは、しっかり覚えておきたいところです。


少し前のスートラ 1.20 で少し書いた通り、できる・できないの話ではなく、やる・やらないという話です。そして、ヨガの練習・実践をするぞということであれば、それをやることに集中し、できる・できないでもやもやしてきたら、「私は何もできない。それをするのは〈あなた〉です」と、ひとまず考えてみる。

そうしてみることで気付くのは、余計な執着を手放す(ヴァイラーギャだ!)ための、なかなか実用的な考え方ではないかということ。何かを欲することを否定するのではないけれど、過剰であると力入りますよね。私は肩と首にがちっと集めてしまうくせがあるので後屈が苦手でしたが、胸を開いて後屈するためには「やりたいできないなんで」と思ってぐっと入った力を、抜く必要があったわけです。そしてその先は、インテグラル・ヨーガ曰く、イーシュヴァラに任せる。

イーシュヴァラは自分の中に眠っているぞという話だったので、手放したようで、結局、自分に戻ってくるわけなので、面白いなあと思うところです。でも自分の中に眠っているとしても、知らないものは知らないし、知らないものって不安。不安だと、怖くなって、やりたくなくなってしまうから、だから、ちょっとずつ自分のペースでやるということも大事だろうな。


もうひとつ最後に。

経験が大事だよと耳にタコができるほど教わってますが、だからといって、知識をまったくないがしろにしているわけではないことも。フォーチャプターズは、至上の意識について熟考することは tattwa chintana と呼ばれ(日本語訳も読み方も見つけられず、アルファベットのまま失礼)、インド哲学六学派の発生につながったと書いています。ただ、至上意識を理解する上で論理的なアプローチではあるけれど、依然として不完全なままだということ。だから、ヨガやバクティ、神秘的または超自然的な実践や行為を通して、 tattwa darshan と呼ばれる至上意識を経験する方法が発展してきたということです。

わたしたちの生まれるずっとずっと前から、至上意識のもっと近くへと、たくさんの人たちが様々なアプローチを考えてきた片鱗を少し垣間見たような気持ちになります。学んだものが、教える側にまわり、ヨガをつなげてきたんですもんね。そして、その始まりはイーシュヴァラだよというのが、今回のスートラ。最初にさっと読んだ時より、ぐっと重みが増します。この重さを、持つことができるかは、あれですね、イーシュヴァラに任せていい。


グルのグルのグルも同じように読んでいたサンスクリット語のヨーガ・スートラです。ぜひ、今回も声に出して読んでみてくださいね。


イーシュヴァラが至上意識らしいということが、じわじわ理解できてきたような気がしますが、至上意識ってそもそもなんだかよく分からず、雲をつかむような気持になりませんか。次回の第1章27節はその解決策について(アレですよ)。こちらからどうぞ⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから

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