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YS 1.16 そして真の自分に会う

執着しないこと、平静であること、反応しないことなどを意味するヴァイラーギャ。感情や想いの揺れを静かにする方法の、2つのうちの1つです。今回のスートラでは、もう一歩踏み込んでみてみましょう。

※前回分は、こちら『YS 1.15 少しずつ自由になる』をご覧ください。

ヨーガ・スートラ第1章16節

तत्परं पुरुषख्यातेर्गुणवैतृष्ण्यम्॥१६॥
tatparaṁ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitr̥ṣṇyam ॥16॥
タットパラム プルシャキヤーテー グナ ヴェ イトルシュニャム

「The highest form of detachment is the total lack of crazing for anything made of the three qualities of nature; such(detachment) results(only) from awareness of the innermost self.」(3)
(高次のヴァイラーギャとは、3つの自然の性質(グナ)によって成る対象への執着から完全に自由になることで、それは本来の自身に気付くことによってのみ生じる。)


まずは、ヴァイラーギャ(離欲)には2つの段階があるということ。自分のもつ執着や嫌悪を認識しながら、コントロールしている状態が通常のヴァイラーギャ。そして、次の段階はパラ ヴァイラーギャ(高次を表す「パラ」が頭につきます)と呼ばれ、もうすでに平安と喜びに満たされているため、喜び、楽しみ、知識や睡眠も望まない(望む必要のない)状態だということです。だから、コントロールする必要もない。

パラ ヴァイラーギャの状態に到達するために、何かをする必要はないと書いているのが、インテグラル・ヨーガ (4) です。感情や思いの揺れが作りだす波、鏡の例えなら表面についた汚れ、ラジオの例えならうるさくなり続ける音、そういったものが取り除かれるヴァイラーギャな瞬間の経験を繰り返すことによって、パラ ヴァイラーギャの体験はおのずからやってくるといいます。そしてその心地よさを再度体験するべく、また練習・実践を続けます。つまりアビィヤーサが必要だよと、ここでもう一度リマインドしてくれます。そうすることで、パラ ヴァイラーギャの中に、じっくりと根をおろしていくことになる。


パラ ヴァイラーギャに違う角度から光をあてているのは、フォーチャプター (1) です。曰く、ヨガを練習・実践する者は、瞑想やサマディの状態に達し、そこに在るときに、自分の中にプルシャに気付く。プルシャを直観的にとらえることで、パラ ヴァイラーギャが発生する、ということです。

YS 1.3 で出てきた〈見るもの〉は覚えているでしょうか。喜んだり、怒ったり、悲しんだりする心や感情の揺れの中にあっても変わらずにいつでもそこにあるのが〈見るもの〉でした。このスートラでは、その〈見るもの〉と表現されていた対象に、名前がつきます。それが、プルシャです。

プルシャ(purusha)は、「街」を意味する puri と、「睡眠」を意味する sha で出来ている言葉ですが、一般には真我と訳されています(ああ意味を深掘りしたい)。5種類ある心の作用YS1.51.11)のどれからも自由で、形もなく、生まれもしなければ死にもしないプルシャがプラクリティと結びつくことで、この世界が生まれます。それがヨガがベースとする理論を展開するサーンキヤ学派の思想です。

...というように、壮大なころまで話がつながりましたが、プルシャとプラクリティの話は、これから先もどんどん説明があって、それに従って輪郭が鮮明になってくると思うので、ひとまず今回のスートラは名前がついたよと、この後少し書いたところまで。ゆっくり読み込みましょう。とはいえ、面白い部分でもあるので、きれいにまとまっているヨガ・ジェネレーションの記事をスッと置いておきます。


〈見られるもの〉にあたるのが、そのプラクリティ。プルシャは内側に存在し、それと相反するプラクリティは、外側の世界とイメージしてみる。その外側の世界の根源にある3つの自然の性質はグナと呼ばれ、心や感情の揺れをつくるおおもとの原因だと、このスートラは書いています。これももうひとつ、覚えておきたい言葉。

その3つの性質とは、サットヴァ、ラジャス、タマスです。詳細は以下の通りです。(9)
・サットヴァ(純質):喜び、透きとおった、公正、軽さ、知性など
・ラジャス(激質):動き、激しさ、痛み、活発など
・タマス(鈍質):怠慢、重たさ、濁り、暗黒、眠たさなど

サットヴァで満たされているのが本来のプラクリティであるため、それを目指すわけですが、だからといって他二つが悪なわけではありません。ラジャスがもたらす動きや情熱は必要だし、タマスがもたらす睡眠や休息なくして心身の健康はありえません。バランスが大事。

アーユルヴェーダでは、食べ物をその3つに当てはめて、状況や体質などもふまえながら、これを食べましょう、避けましょうと提案してくれるので、ご存知の方もいるかと思います。行動や思考も対象になるし、私はこのあいだ調べものしていたら、ヒンドゥー教の女神たちもこの3つで分類していたので驚いたばかりです。


五感で感知するもの、手で触れられるものからそうでないものまで、すべてこの3つのグナでできていると考えられています。そんな中で唯一の例外があります。それが、本来の自身であるプルシャです。

それだけ自由であるならば、世界に求めることも、望むものもないわけです。だからそこには執着がない、というわけでヴァイラーギャに戻ってきます。とても遠くまで旅した気持ちになるスートラですが、一緒に戻ってこれているでしょうか。


とてつもない話ではありますが、インテグラルヨーガ (2) が、『いかにしてこころを〈神〉のうちに置くかを知ったならば、あなたは常にそこに憩いつつ、しかも世界に遊ぶことができる』と書いているのを、覚えておきたいなと思います。日常生活を送るこの世界そのままで自由になることが出来るし、この世界の楽しみ方を学び、経験していくんだということ。

とはいえ、『「この世を楽しめ」といっても、今すぐに、という意味ではない。まずは至高のヴァイラーギャに至り、然る後に楽しむのだ。』としっかりクギをさすのを忘れていません。よくできてるな。


では、今回もスートラの音声をおいておきます。ぜひ聞いて、口に出してみましょう。もうなんとなく読み方にも慣れてきたでしょうか。


旅に出るなら目的地を知っている方がいいというわけで、ヨーガ・スートラ第1章は、ヨガを使ってたどりつきたいところを説明しています。ここから、すでにちょこちょこ出てきているサマディにぐっと寄っていきます。次回のヨーガ・スートラ第1章17節はこちらから⇩


※ 本記事の参考文献はこちらから

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