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YS 1.3 見るもの

前回は、ヨガというのは、心や感情が静止した状態のことですよという話でした。それはちょっと大変そうですが、なんで私たちそんなこと目指すんですか、というのの答えです。

※前回分は、こちら『YS 1.2 耳を澄ませる』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章3節

तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥
tadā draṣṭuḥ svarūpe-‘vasthānam 
タダー ドリシュトゥフ スヴァルーペ ヴァスタナム

「Then, the seer is established(abides) in his own essential nature.」 (3)(そのとき、〈見るもの〉は本来の状態におさまる。)

さっそく出鼻をくじきますが、ここで改めて出てきた〈見るもの〉とは何かという議論は、もう少し先まで待ちましょう。ここでは、自分の身体とか心とかと思っているもの(=〈見られるもの〉)ではない、〈見るもの〉というのがあることを知るので充分。

私が本来の自分や状態として訳してきたそれは、インテグラル・ヨーガ (2) では「見る者【自己】」と訳されています。そして、真我である、意識である、アートマンである、プルシャである、と様々な解釈を加えていくことも出来るのですが、ここではシンプルに〈見るもの〉とします。なぜならば、サンスクリット語の draṣṭuḥ / ドリシュトゥフ は、日本語でも英語でも「見るもの(seer)」として訳されているからです。ヨーガ・スートラがそれでいいよと言っているので、それを素直に受け取ります。

もうひとつ、インテグラル・ヨーガでは「とどまる」と訳されている avasthānam / アヴァスタナム をもう少し見てみたい。英語だと以下のように様々な訳が出てきます。
・establish(設置する、確立する、定住する)
・abide(とどまる、居住する、持続する)
・dwell(住む、ある、残る)
これらに、「長期的に在る」というニュアンスが共通していることに気付きませんか。そして、長期的に在ることって、なんか安心しませんか。

(語学講座っぽくなっていますが、言葉は文化を表現するために存在するわけなので、ぜひまだ共にいてくださいー!)

ヨガとは心の作用と身体の動きが静止した状態のことであり、そうあることで、〈見るもの〉が本来の状態におさまるんだよ、とだけで一旦終わらせているヨーガ・スートラ。ほのかに安心を示唆してくれているだけです。
だったら、ヨーガ・スートラが導くように、そうか、と飲み込んでみる。そして、もっと具体的に得られる嬉しいことはおいておいて、考えてみませんか。自分の一挙一動に〈見るもの〉があるということ。そして前回のラジオのたとえを使うならば、自分の底にながれる音があるということ。それって、どうですか。


現在、私たちは、コロナがもたらした変化の真っただ中です(2020年6月現在)。この騒動が始まったこの2カ月とちょっとの間に、先が分からないということが、こんなに不安なんだということを、私は、より深く理解したように思います。

それでも、悪いことばかりではないはずで、変化は進化をもたらします。でも、心は揺さぶられるし、そのまま不安につられていたら、あっちこっちに飛び回ってしまって疲弊してしまう。それは、望んでいない。では、何を望んでいるのか。そして何かを望んでいる私を、〈見るもの〉はどう見ているのか。

全ての思いや行動の根底について考えるとき、もはや誰なのか(who am I)と人でくくった制限すら外して、何なのか(what am I)と問う。
まっすぐだったり、曲がりくねった道を生きてきた中で、変わらずに、ずっとそこにあったものは何なのか。その答えをぽんと言われたとしても、実感として理解することは難しい。だからこそその言葉をのぞき込むだけではなく、自分を丁寧に観察し、調べていく過程に時間をかけたい。そして、その自身で経験していくことを大事にしたい。そうするほどに見えてくる様々な自分の、それでも、その中に変わらずにいつでもそこにある〈見るもの〉がある。
これ、なんかほっとしませんか。わたしという何かには、アンカーがあるとうこと。

ハリーシャ (3) は、とても美しい表現ではっとさせてくれることが多いのですが、〈見るもの〉については、次のように言っていました。
「次のひと息よりも近くて、でも手を伸ばしたそのまた向こう側にあるもの(‘What you are is closer to you than your next breathe, yet it's beyond your grasp’)」
どうしてつかむことができないのかという問いに、それは物質や物体ではなく、〈点〉だからと答えていました。その〈点〉は、全ての行動が始まるところであり、全てがもう既に観察されつくしているところであるとも。


もうそこにあるのだから、手が届かないものなのでは決してなく、ただ充分に享受するのがとても難しい。本来であれば、リラックスして自分に感じ入ることで出会うこともできるはずなのに、自分自身でややこしくしてしまっているんだなあということが、よく分かります。

私の最初のヨガ哲学の先生ヴィリアムから、ヨガを学ぶ道は、自分が何なのかを問い続ける旅だと教わりました。まずは、その問いを引き受ける。まだまだ始まったばかりです。

次回のヨーガ・スートラ第1章4節は、では心や感情が静止していないとどうなるの?という疑問の答えです。でも今はまず、スートラを読みましょう。


ではもし心や感情の揺れが静止しなかったらどうなるのでしょうか。それについては、こちらの次回のヨーガ・スートラ第1章4節から⇩

※本記事の参考文献は、こちらからご確認ください。

(2020年9月8日加筆・修正)



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