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YS 1.12 こころを静かにするには

パタンジャリは、心の作用のが発生するみなもとを5つに区別して説明してくれました。ではそれらをどのように「止滅する」のか。そのハウツーにトピックが移っていきます。

※前回はこちらの『YS 1.11 〈記憶〉とは』をどうぞ。


ヨーガ・スートラ第1章12節

अभ्यासवैराग्याभ्यां तन्निरोधः॥१२॥
abhyāsa-vairāgya-ābhyāṁ tan-nirodhaḥ ॥12॥
アヴィヤーサ ヴァイラーギャービャム タンニローダハ

「これらの心の作用は修習(アビイアーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって止滅する。」(2)


さて、ここでもパタンジャリは、具体的な説明の前に、止滅する方法2つをメニューのように先に眺めさせてくれます。ここから、それぞれの詳細と実行することでどうなるかについて、4節かけて説明していきます。
私たちも、ここでポーズをとって、どういうことか考えてみましょう。

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その前に。インテグラル・ヨーガ (2) が、修習と離欲と日本語にしてくれていますが、ここではそれぞれを アヴィヤーサ と ヴァイラーギャ として、サンスクリット語のまま使っていきたいと思います。

耳慣れないのでちょっと大変かもしれませんが、漢字の熟語で知ることで解釈が加えられてしまうことを、ちょっと待ってもらおうかなというのが、理由の一つ目。これから説明してくれるので、今は白紙でもよいはず。それから、サンスクリット語は発音することで体内に発生する振動まで計算されている言葉なので、ならばしないでかというのが二つ目です。

ひとまず、ここで一回口に出しておきませんか。アヴィヤーサ、ヴァイラーギャ。はいもう一度。

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インテグラル・ヨーガ (2) は、心の作用を止滅する方法を、「積極面」と「消極面」という反対のアプローチである説明しています。積極的な方法と、消極的な方法ということだと理解して、まずは積極的な方法であるアヴィヤーサから。

アヴィヤーサを「修習」と訳した場合、「習うのを修める」という漢字が意味するとおり、身につくまで練習・実践しなさいねということです。これは派生した意味なのかなと思うのは、英語の解説がどちらも「実践・練習を繰り返すこと」としているから。全部混ぜるとこんなかんじ:繰り返し実践・練習することで修習していくこと。

向井田みおさんという、インドで長く勉強され、ヨーガ・スートラの解説本も出版している方がいらっしゃるのですが、その方もアヴィヤーサを「繰り返しの練習」と訳しています。著書のひとつである『バガヴァッドギーターカード』を参照したのですが、その解説で、「毎日少しの時間でかまいません。自分自身と座り、何度も瞑想をアッビャーサしましょう。Yogaや瞑想は、特別なイベントではありません。」と書いているのもシェアします。特別なイベントだけになってしまうと、ツールであるはずのヨガが、目的になってしまいやすいですよね。それは結構つらい。

ちなみに、じゃあ何を具体的に実践・練習するのかというと、かの有名な八支則なわけです。第2章までお預けですが、もうすでにパタンジャリから宿題をもらっているので、教わったことからやってきましょう。(自分の心の作用の区別とかね)

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さて、積極的に取り組むアヴィヤーサと反対に、消極的なアプローチで取り組むのが、ヴァイラーギャ。消極的というのはつまり、自分から進んで取り組まないこと。これ大事。


離欲、または執着しないこと(non attachment)と訳されるヴァイラーギャですが、欲をひっぺはがすイメージありませんか? それって、自ら進んで取り組んでます。つまり、消極的でない。そもそも、欲ってきくと、悪いを想像しやすくありませんか。だから、欲から離れること、と聞くともはや悪霊退治みたいな気持ちになったりして。

でも、ヨーガ・スートラは、ここではただ欲を離しましょうというだけです。その欲は不要のものではありますが、悪い欲コノヤロー!とか言っているわけではないです。これって実は心の作用のひとつ、書き換えられた過去の経験からうまれる〈記憶〉の、苦痛を生む側に育ってしまった結果ですよね。(私がね。とほほ)(でも習ったことは使ってなんぼ!)


そう気付いたのは、執着しないことというだけでは本来の意味と違うんだと教えてくれたハリーシャのおかげ。ヴァイラーギャ(vairagya)という言葉を、語源学を使って分解すると、「憎悪、強欲、嫌悪、執着から成る影による色付けから自由になること」という意味になるそう。だから「欲と離れること」というよりは、染まった色が抜けた「透明である状態(transparency)」の方が正しいニュアンスではないかと言っています。だから、積極的に欲を遠くに押しやるというよりは、静かに離れていくのを透明な気持ちで見ることが、ヴァイラーギャの在りかたなはず。私はどろっとしたものがはがれたような感触ですが、どうでしょうか。(3)

先ほど紹介した向井田みおさんが、ヴァイラーギャに「冷静さ」と日本語訳をつけているのも、そういうことかと思います。彼女は「何が欲しいか解らずに、情報や流行に流され、迷い、いろいろなものを追いかけるような落ち着きのない生き方から離れることを諭す言葉です」とも書いていますが、その情景を想像した時、そこはとても静かだろうと思う。

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最後に指摘しておきたいのは、アヴィヤーサとヴァイラーギャの2つが、お互いに補完しあうところ。

繰り返し練習や実践をすることは、食欲やら睡眠欲など、さまざまな欲と出会い続けることになります。それでも続けようと意志を持つことは、自ずと欲との向き合い方を学ぶプロセスです。そして、慣れてくると、続けることが簡単になっていく。ちょっとずつでも、一歩一歩が大きくても、この二つで良い循環を作っていけるところが想像できるので、できるかもと思える。


でもまずは、次の4節でそれぞれをもう少しじっくり学ぶところから。準備体操として、今回のスートラも、ぜひ声に出して読んでみてくださいね。今回のスートラは、ここまで読んできていたら知ってるサンスクリット語でできているようなものなので、それもしみじみ楽しみましょうぞ。


では、ぐぐぐっと虫眼鏡でのぞき込む、続きのヨーガ・スートラもお楽しみに。次回のヨーガ・スートラ第1章13節はこちらから⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから。




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