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YS 1.29 アウトラインをなぞり続ける

パタンジャリは、イーシュヴァラの名前、つまりオーム と繰り返し復唱するんだよと教えてくれました。それは、どうしてでしょうかという質問の答えが今回のスートラ。このまま今回のを読む前に、自分がどう思うかを少し考えてみるのもいいかもしれません。

※前回分は、こちら『YS 1.28 正しく呼ぶ』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章29節

ततः प्रत्यक्चेतनाधिगमोऽप्यन्तरायाभावश्च॥२९॥
tataḥ pratyak-cetana-adhigamo-‘py-antarāya-abhavaś-ca ॥29॥
タタハ プラティヤック チェータナ アディガーモ アピ アンタラーヤ アバーヴァシュチャ

「From that practice the consciousness turns inward and the obstacles are overcome.」(1)
これを実践することにより、意識は内側へ向かい、障害を乗り越えることが出来る。

オームを復唱することによって起こること。それは、意識が内側へ向かうこと。そしてそれによって、障害がなくなること。

オーム というのは、イーシュヴァラの名前だから、イーシュヴァラのことを心に置きながら復唱しなさいねということだったはずです。でもあれ? イーシュヴァラのことを考えながらするんだから自分ではないところ、つまり外側に意識を置いているんじゃないの? と思いますが、ここで明確に「内側に向ける」と書いているのだから、もう暗黙の了解なんだろうと思います。つまり、スートラ1.24 で紹介したハリーシャ(参照3 )の解釈のとおり、イーシュヴァラは、わたしたち内在しているという理解でよさそうです。

その回で、オーム と復唱することを「共鳴するのを探索する」と表現しているし、そもそもスートラ1.27 で、イーシュヴァラを指し示すのは オーム という神聖な共鳴音だと書いているわけです。ここで共鳴するのは、至上のプルシャであるイーシュヴァラと私たちのプルシャでもあるはずなので、心と身体によって限定された私たちに内在する、無限の存在であるイーシュヴァラを起こしてくれることに、つながりますよね。

このことについて、神が純粋で穏やかで自由であるように、私たちの精神が覚醒した魂もそうであると認めるべきだと書かれた、ヨーガ・スートラの古い解説書から引用して紹介していました。パタンジャリのシステムでは、私たちの魂はイーシュヴァラと同様に聖なるものと考えることができるというわけです。

インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参考2)も、オーム と復唱することで、イーシュヴァラと同調し、それによって『その力を自分の中に感じ、その性質を全て吸収し、宇宙的なヴィジョンを得、自分の限界のすべてを超えて、ついにはその超越的な実在となる。』と、書いています。


そう考えると、復唱してイーシュヴァラと共鳴することで障害が消えるのも、今までのヨーガ・スートラで書かれていたことをふまえると、この過程のアウトラインをイメージしやすい。

ヨガは、〈見るもの〉であるプルシャが本来の状態におさまることを目指します。そのためには、〈見られるもの〉であるプラクリティの世界にある3つの自然の性質(グナ)によって成る対象への執着から完全に自由になることによって、心や感情の揺れを静止させる必要がある。

スートラ1.25 でやったように、イーシュヴァラには、制限のない全知の種が存在するので、その時に必要な知恵にアクセスすることができるといいます。だから、このプラクリティが見せる執着の対象、つまり障害となるものが、本来の自分には必要がないということを知ることができる。だから、なくなるというわけです。


とはいえ、ものすごく壮大過ぎて頭がついていかないなと思う気持ちも芽生えませんか。少なくとも、わたしは。その理由を考えると、ヨガのゴールをそこまで本気で望んでいるんだろうかという疑問かなと思います。

でも、自分に、またはもし同じところでうーむと考える方がいたらその方にも、リマインドしておきたいなと思いますが、わたしたちは実際に経験するまで、ヨガのゴールを理解できないということです。知らないものを、正しく望むことってできるだろうかと考えた時に、わたしは難しいよなあと思います。ただ、ゴールにたどり着いて、空が晴れるように障害が消えるなら、それはもちろん目指したい。だから、望む対象である「それ」に少しでも近づいてみるために、そしてヨガをもっと知りたいと思うから、先人が残してくれた文献を読む、という姿勢でいることが、しっくりくるかな。それを思い出すことで、ヨーガ・スートラとの間にできてしまった壁を、取り除くことが出来るように思います。


フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1)がですね、パタンジャリは、スートラ1.23 から今回の1.29 にかけて、「平均的な人々」のために完成された訓練を教えてくれて、とても親切だねと書いています。笑。きっと、すごく実践、練習、訓練をしている人たちを目の当たりにして生活しているからこその「平均的な人々」という記述が出てきたんだろうなと想像します。

アサナクラスでも、あとは普段の職場や学校で、あの人すごいなあと思うことありませんか。その時に、あんな風にはなれないわと思ってやる気をなくしたり、意気消沈してしまわないようにするための、このイーシュヴァラという存在をヨガ哲学に取り入れた理由の一つというわけです。

そして、それが十分に最終的に知性の更なる高みと心の鋭さを確立するための、準備となるよということまで書いています。これは朗報。この準備をすることで、更に深くへと続くことができ、それによって最後に待ち受けるゴールにたどり着くことが出来る。

実際に経験するまで知ることができないゴールのアウトラインを、ヨーガ・スートラは何度もなぞらせてくれるんだろうなと思います。全部で196節のうちの、まだ29節。さあ、まだまだゆきましょう。

今回のスートラをサンスクリット語で音読するのもお忘れなくー!


ここまでの、イーシュヴァラという新しくて未知な概念を学ぶ7節は、どうだったでしょうか。わたしは、なかなか大変だったし、理解を深めるにも何度も読み返すことになるんだろうなと思います。

次回からは、ではその障害って具体的にどういうものがありますかという話にうつっていきます。こちらは、自分の経験を分類して名前をつける作業なので、だいぶ分かりやすいはず。こちらからどうぞ⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから



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もえ|渡辺朋江
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