町で一番美しく咲くという桜の木までやってきた。月の明るく照った夜のことである。夜桜を一目見ようと集まった陽気な野郎どもであふれているかと思いきや、人っ子一人いなかった。これはどうしたことかと思ったが、はたと昼間聞いた噂を思い出した。

「夜中に桜の木の下で待つ美しい女は決まって妖だ。その美しさで愛を囁き、男の魂を食らうらしい」

その時は、噂好きの町人もいたもんだと鼻で笑ったが、どうやら誰も信じていることらしい。その証拠に、この閑散ぶりだ。仕方ない。家から持ち出したこの酒を、軽くあおって帰るとするか。

ぐいと一飲みしたところで、桜の木の下に女がいることに気がついた。これが件の妖であろうか。俺は女をじっと見た。ふむ、確かに美しい。

「もし」

と女が口を開いた。その声は、どうにも聞き覚えのあるものだった。

「覚えておりますか」

と女がまた言った。俺はせいぜい考えた。これだけ美しい女なら、一目会って忘れることがあるだろうか。

「今夜は月がきれいな夜ですね」

一言も発しない俺に構わず、女はまた声をかけてきた。そして俺は気がついた。その女は、お綾であった。幼き日、一度この桜の木の下で出会っていた。すっかり美しくなったもので、気が付くのに時間がかかった。あの日俺は、ひどく腹を空かせた小娘に、握り飯を分けてやったのだ。ほんの小さな握り飯に、幼いお綾はいたく感動し、涙を流して喜んだ。お綾は握り飯を持ち帰ると言った。そして、このお礼は必ずいたしますと言って別れてから、もう十年近く経っただろう。

「やっと思い出してくださいましたか」

お綾は優しくそう言うと、俺を桜の木の下に呼んだ。あの日のように、俺とお綾は桜の木の下で並んで座った。お綾は俺に、この歳月を埋めるかの如く質問をしてきた。住まいはどこか、仕事は何か、伴侶はいるのか。けれども俺の質問には一つたりとも答えなかった。

昼間の町人が、俺の頭の中でこう言った。

「妖は、男に自分の暗い身の上を話すことで、同情を引き、虜にしてしまう。そうして気が付いた時には魂が抜かれているというわけだ」

そういうことなら、お綾は妖じゃなさそうだ。何しろ、俺の質問にはちっとも答えてくれないと来た。そもそも、妖などというものを信じているのが馬鹿らしい。それに、お綾が俺に何一つ話さなくとも、俺はもう、思えば腹を空かせたと言うお綾に握り飯をやったあの日から、十分お綾の虜であった。

あの日、必ずお礼はすると言ったお綾。もしそのお礼が、例えば俺の嫁に来るということでも、叶えてくれるのだろうか。俺はお綾に聞いてみた。

「ええ」

とお綾が微笑んだ。

「ただし、約束してください。決して私に、愛の言葉を求めないこと」

それから夫婦となった俺達は、たいそう幸せな日々を過ごした。お綾はよくよく働くし、そのくせほとんど食事を取らないから、金がかからなかった。それに、言葉すらなくとも俺を好いているのだというのがよくわかった。町を歩けば誰もが振り返る、自慢の女房だ。俺は鼻が高かった。

しかし、数年後のある夜、酔っ払った俺は長屋の娘と間違いを犯した。やたらと「愛している」と言ってくるその娘に、どうにも心揺らいでしまったのだ。お綾が決して言わない、甘い響きの言葉である。それがどうにも新鮮に感じ、酒の勢いも相待って、お綾を裏切ってしまったのだ。

お喋りな長屋の娘との情事は、お綾の耳にも入ってしまった。気が付けば、お綾はすっかり痩せ細っていた。俺は何度もお綾に謝った。お綾は俺を責めることもせず、ただ悲しそうに微笑むばかりであった。俺はどうにも居た堪れなくなって、傲慢にもお綾に愛の言葉をせがんだ。たった一言「愛している」と言って欲しいとせがんだ。だが、お綾はやはり悲しそうに微笑むばかりで、何も言わなかった。なぜ言わないのか聞いても、お綾は答えない。

それはお前が妖だからか? と思わず口走った。本気で言ったわけではない。冗談のつもりであった。お綾は否定も肯定もしなかった。しかし翌朝、俺が目覚める前に、お綾は家を出て行った。待てど暮らせど、お綾が戻ってくることは二度となかった。

そういえば、俺とお綾が夫婦になってから、妖の噂はぴたりとなくなっていた。それに気が付き、俺は一人で涙を流した。

おしまい

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春の毎日朗読会 開催中!
◆日時◆
4月中毎日22:45頃
◆場所◆
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◆内容◆
本noteに投稿された短編を、その日の夜に朗読いたします。一読だけでどこまで表現できるかの挑戦です。よろしければぜひご覧ください!

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【脚本】たかはしともこ(@tomocolonpost)
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【出演】鳥谷部城(@masakimi_castle)
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