とある王女の一日②

ある朝早くのこと。とある王国の王女は、窓際で風に吹かれていた。王女の長い栗色の髪が柔らかく揺れている。まだ若い王女の顔は憂いに満ちていた。隣国の王子との婚礼の儀を明日に控え、自分の人生について思いを巡らせているのであった。王女として生まれてから今日まで、何を着て何を食べるかだけでなく、どう生きるかも、誰と結婚するかまでも全て決められていた。まるで人形みたいね、と王女は自分を嘲笑した。

王女には、遠く窓の外の人々が、貧しくもたくましく、そして自由に生きているように思えてならなかった。それを羨ましく思う一方で、長い戦争で疲れ切ったこの国の誰もが幸せに暮らすため、出来ることがあるはずだと考えていた。そしてそれを成し遂げることが自分の王女として生まれた意義であり、果たすべき使命だと思っていた。

それならば、と王女は思った。自分の足で、この国を歩いて、見て、聞いて回らなければならない。明日、この国を発つ前に。何も知らない自分では、何かを成し遂げることはできない、と王女は思った。それから王女は、誰にも見つからないよう、城を出た。それは、王女が初めて自分で考え、決めたことであった。

行く当てもなく歩いていると、小さな市場にたどり着いた。せわしなく歩き続ける人々にぶつかりながらも、王女はそこで売られている品物や、それを買う人々を眺めて回った。すると、大柄な男が二人、王女に声をかけてきた。

「お嬢ちゃんこんなところで何しているんだい。道に迷ったなら、家まで案内してやろうか」

王女はその親切な男たちに「大丈夫よ、ありがとう」と言うと、その場を立ち去ろうとした。まだもう少し街を見て歩きたかったのだ。だが男たちは王女の腕を無理やり掴むと「遠慮するんじゃないよ」と言った。王女がいくら拒んでも、男たちは手を放そうとはしなかった。

すると「やめな!」という声と共に、男たちの顔目がけて石が飛んできた。男たちがひるんだ一瞬のすきに、青年が王女の手を引いて「こっちだ」と言った。青年に連れられるがまま、王女は狭い路地裏を走った。やがて青年は「ここまでくれば大丈夫かな」と言うと、王女にマントを手渡した。「着ておきな」と青年が言った。

「そんな高そうな服を着て、市場なんかふらふら歩いちゃダメじゃないか。さっきのやつらはここらじゃ有名な人さらいだ。あのまま捕まっていたら、どうなっていたかわからないよ」

やっと息の整った王女は「助けてくれてありがとう」と言った。青年はちょっと照れ臭そうに「どういたしまして」と返事をした。

「ところで君、名前は?」
「ミアよ」
「僕はフィンだ。よろしく、ミア」

ミアは、父と母以外から初めて名前で呼ばれ、なんだかこそばゆく思った。しかし、悪い気がしなかったのは、このフィンという青年がミアがまさに憧れる「自由に生きている人」のように見えたからであろう。

「それにしても、あんなところで何をしていたの?」
「私、その……この国を、あっ、街を見て回りたくて」

「何それ。君、変わっているね」とフィンが笑いながら言った。

「でも、そういうことならいくらでも案内してあげるよ。この街のことで、僕の知らないことはないからね」

フィンはそう言うと、ミアの手を引いて街を案内して回った。街の噴水広場では、一緒にジェラートを食べた。城で食べるそれよりも質素な味であることは間違いないのに、ミアは心から「こんな美味しいもの、食べたことないわ!」と言った。フィンは嬉しそうに「そりゃよかった」と言った。

「そこの石畳、ひびが入っててつまずきやすいんだ」

とフィンが言った傍から、ミアがつまずいた。フィンは慌てて抱き留めて「ほらねミア。言わんこっちゃない」と笑った。「もっと早く言ってくれないと」とミアは怒って言った。それがなんだかおかしくて、二人は顔を見合わせ笑い合った。

「あそこの八百屋の店主は機嫌がいいとおまけをくれるんだ。でも今日は……機嫌悪そうだからやめておこう」
「本当に、フィンったらなんでも知っているのね」
「言ったろ? 知らないことはないって」

そうね、とミアが笑った。街を隅々歩き回りながらフィンはミアに、街の噂についても話して聞かせた。

「ねえミア。この路地裏、夜中になると女の幽霊が話しかけてくるらしい。返事をすると、どこかに連れて行かれちゃうんだ。……それから。あそこに時計台が見えるだろう。あの下でキスをした恋人たちは結ばれるらしいよ。おかしな話だけどね」
「とってもロマンティックだと思うわ」

そうかな、とフィンは小さく言った。そうして思い出したように「お腹空かない?」と言って大きなサンドウィッチを買ってきた。二人は川沿いに並んで座り、それを食べながらいろいろな話をした。いつまで経っても、話題が尽きることはなかった。やがて日が傾いてきたころ、フィンが言った。

「さあ、他にどこか行きたいところはある?」

ミアは少し考えて、それからポツリと「時計台に行きたいわ」と言った。フィンは少し驚いた顔をした後、笑って言った。

「わかった。ちょうどすぐそこだ」

時計台の周りには誰もいなかった。フィンと、ミアと、二人きりだった。しかし、二人とも何も話そうとはしなかった。さっきまであんなにおしゃべりをしていたのに、まるで別人になってしまったかのように、ただ黙って、遠く沈んでいく夕日を眺めているだけだった。

ふと、二人の目が合った。そうするとミアは何かを期待するように瞳を閉じた。フィンはミアの栗色の長い髪を愛おしそうに撫でた後、ゆっくりと、優しい声で「さあ、王女様。もう帰ったほうがいいんじゃない?」と言った。

「知っていたの?」
「自分の国の王女の顔を知らないやつなんていないよ」

確かにそうね、と答えるミアの瞳が少しうるんでいることに、フィンは気付かないふりをして言った。

「王女様にはさ、王女様にしかできない、果たすべき使命、みたいなものがあるだろう」
「ええ。そうね。そうなのよ。ありがとう、フィン。一番大切なもの、無くしてしまうところだった」

フィンは頷くと、「一人で帰れる?」と聞いた。「街中が王女様のことを探しているから、帰れるだろう」と言うフィンの目もうるんでいることを、ミアは気が付かないふりをした。

「じゃあ、さよならだ。王女様」
「フィンも、元気でね」

そういうと王女は、決して振り向かず、時計台を後にした。途中、王女を探す顔なじみの兵士を見つけ、共に城へと帰って行った。父や母や大臣たちは、王女のことを厳しく叱ったが、「もう二度とこんなことしないわ」と言うその表情が、どこか大人びていて、それ以上何も追及はしなかった。

翌日、国中の誰もが祝福する中、王女の婚礼の儀が執り行われた。王女の顔は、今までになく凛々しくも華やかなものであった。

おしまい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?