とある王女の一日③

「おーいフィン! お前の大好きな王女様が城からいなくなったらしいよ」と鼻たれヴェニスが僕を呼んだ。それが本当なら、今この街のどこかに王女様がいるってことか、と僕は聞いた。どうだろうね、とヴェニスは言った。

道端で拾った新聞に写っていた王女様を見てから、僕はどうにもその姿に夢中だった。もちろん、こんな平民の僕と、王女様が結ばれるなんてありえないってことはよくわかっている。それに王女様は隣国の王子に嫁ぐことが決まっていた。でも、淡い憧れを胸に秘めるくらい、許されて然るべきだろう。

それが何ということか、たまたま通りがかった市場で、人さらいに捕まっている王女様を見つけてしまったのだ。城を抜け出したというのは、本当らしかった。周りの人たちは、王女様に気付いていないのか、人さらいが怖いのか、見て見ぬふりをしている。

思い切って投げた石が、偶然にも人さらいの顔に当たった。人さらいがひるんだ隙に、僕は王女様の手を引いて路地裏を駆け抜けた。あいつらより、僕の方に地の利があったから、追っ手を撒くのは簡単だった。

「ここまでくれば大丈夫かな」と言って、改めて王女様の顔を見た。間違いない。何度も夢に見たその人だった。「ありがとう」だなんて、僕を見て笑っている。「名前は?」と聞いてみたが、もちろん知っている。「ミアよ」と王女様は答えた。どうせもう会うことはない。一生分その名前を呼んでしまおうと思った。噛み締めるように「よろしく、ミア」と言った。

それにしても、この王女様、いや、ミアはあんなところで何をしていたのだろうか。そう聞くとミアは、この街を見て回りたいと言った。どうやら自分の身分は隠すつもりらしい。じゃあ僕も気が付いていない振りをしよう。

「そういうことならいくらでも案内してあげるよ。この街のことで、僕の知らないことはないからね」と言うと、ミアは喜んだ。僕は、王女様が喜びそうなところに行こうと考えたけれど、それはやめた。ミアは等身大のこの街を見たくてわざわざ城を抜け出したのだろう。

ミアは僕が何を話しても、その全部を面白そうに聞いてくれた。何を見ても感動しているし、何を食べても美味しいと言った。王女様なんて言うからお高く留まっているのかと思っていたが、そんなことは全くなかった。まるで普通の女の子のようにミアは笑っている。その隣を歩いているなんて、夢なのかもしれないと思った。

「あそこに時計台が見えるだろう。あの下でキスをした恋人たちは結ばれるらしいよ。おかしな話だけどね」

これは街で実しやかにささやかれているつまらない噂だ。そんなことで結ばれていたら、街中幸せなカップルであふれてしまう。僕はこれを鼻で笑いながら話したけれど、ミアは「とってもロマンティックだと思うわ」と言った。どう返事をすればいいかわからず、適当に相槌を打った後、無理やり話題を変えてしまった。

それなのにどうしてか、僕の足は自然と時計台の近くまで向かっていた。川沿いでサンドウィッチを食べながら、「たくさん歩いて疲れただろう」と聞いてみた。ミアは「全然!」と明るく答えた。それからミアはじっと何かを考えた後、話し出した。

「今までの私は、何をするのも言われるがままで、まるで意志のない人形みたいだった。この国の誰もが幸せに暮らしてほしいって心から思っていたけれど、そのために出来ることが何かもわからなかったわ。でも、今日一日街を歩いてみてね、いろいろなことを知ったからこそ、今の私にしかできないことがある、ってそう思ったの。それはきっと、私が生涯をかけて果たすべきことなんだわ」

ミアは、自分がまるで王女様のようなことを口走っているのに気が付いていないみたいだった。でもそんなミアの横顔は、夕日を浴びて輝いていて、あまりにも綺麗で、何より決意にあふれていて、僕はミアをとても遠く感じてしまった。少し手を伸ばせば届く距離にいるミアは、この国が誇るべき気高い王女様だった。お城を飛び出して何かを探しに来た王女様は、その何かを見つけたのだろう。

「でもそれに気が付けたのは、フィンが一緒にいてくれたからよ」

とんでもない。僕は今日一日、ミアと過ごせるだけで舞い上がって、自分が何を言ったかもよく覚えていない。つまらないやつだ。とてもじゃないけど、ミアに誇れるような人間じゃない。僕は自分が情けなくて、ちょっと笑うことしかできなかった。

「さあ、どこか行きたいところはある?」

と、僕はミアに言った。ミアを城まで送り届ければ、今日この日はおしまい。ミアもきっと、すぐ忘れてしまうだろう。隣国の王子とやらは、優しくてかっこいいと聞いたことがある。

「時計台に行きたいわ」

と小さな声でミアが言った。僕は驚いて、でも平静を装って「わかった」と言った。時計台はもう、すぐそこだった。

ほんの5分くらいの道のりを、僕らは黙って歩いた。僕はミアの様子をうかがう余裕なんてなかった。たださっきのミアの横顔を思い出していた。普通の女の子のように笑っていたミアも、本気で国のためを思っている王女様も、全部が大切だった。ミアは世界で一番素敵な人だ。きっとこの想いが届くことはないけれど、届けるつもりもないけれど、この奇跡のような一日を忘れないよう、何度も繰り返し繰り返し思い出していた。

時計台の下へたどり着いても、ミアは何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。もうすぐこの一日が終わってしまうことを、お互いに感じあっていたのかもしれない。僕がミアの方を見たら、ミアも僕の方を見ていた。僕がヘヘッと笑うと、ミアはゆっくりと目を閉じた。僕はミアの綺麗な長い髪を大事に撫でた。それから心の深いところから「さあ、王女様。もう帰ったほうがいいんじゃない?」と言った。ミアは少し驚いて「知っていたの?」と言った。

ミアにキスをするなんて、そんなの簡単だった。ただ顔と顔を近づければいい。でも、ミアはきっとあの時、自分の使命みたいなものを見つけたんだ。僕がそれを邪魔しちゃいけない。それに、この時計台の噂を、嘘にしてしまうのはなんとなく忍びなかった。それでも、ミアが時計台に行きたいと言ってくれたことが嬉しかった。少しでも今日が終わることを惜しんでくれていたんだろうか。

「自分の国の王女の顔を知らないやつなんていないよ」と僕は言った。ミアの目はうるんでいるように見えたけど、僕は何も言わなかった。代わりに「王女様にはさ、王女様にしかできない、果たすべき使命、みたいなものがあるだろう」と言った。ミアは深く、何度もうなずいていた。これでよかったんだ。

もう一度だけ、「ミア」と名前を呼びたかった。でも今そう呼んでしまうと、目から何かが出てきそうで、どうしても呼ぶことが出来なかった。大丈夫。今日一日、悔いのないほど呼んだ名前だ。本当は城まで送って行ってあげたかったけれど、どうやらそれもできそうにない。僕の視界がぼやけていることを、気が付かれたくはなかった。

「じゃあ、さよならだ。王女様」
「フィンも、元気でね」

そう言うと王女様は、一度もこちらを振り返らずに去って行った。ちょうどよかった。涙がもう、堪えきれず流れてきたところだった。

翌日、婚礼の儀を迎えた王女様の写真が、新聞に大きく載った。その表情が、僕には今までで一番綺麗な顔に見えた。

おしまい

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