看板の向こう側

待ち合わせの時間から、一時間ほど過ぎていた。飲み干したアイスコーヒーの氷はすっかり溶けて、コップも汗をかいていた。

君はまだ来ない。

外を眺めてみると、楽しげに歩くカップルや、母親に手を引かれた子供、スーツ姿のサラリーマンが行き来している。

あのカップルも、いつかしょうもないことで喧嘩をして別れるだろう。
ママが大好きなあの子も、思春期になればひどい言葉を吐くに違いない。
くたびれたサラリーマンは、あのまま夢もなく孤独な生涯を送るのだ。

ああ、君が早く来てくれれば、こんなひねくれた考えをしなくても済むというのに。それとも君は、来ないつもりだろうか。
あの日みたいに、突然僕の前から姿を消すつもりだろうか。

15年前も、君は美しかった。
美しすぎて、眩しすぎて、僕の青春の全てだった。

思い出の中の君はいつも笑っていた。
僕が君を思い出すたび、変わらない笑顔で笑いかけてくれていた。

あの頃の僕は、君を幸せにするには幼すぎて、まだほんの18歳の自分を何度も恨んだ。それでも君は、僕の精一杯を全部受け止めてくれた。

僕は多分、君の華奢な手を痛いくらい握り締めていたのに、君はそれを「かわいい」と言って笑った。
君のことをもっと知りたくて、「好きな漫画やゲームはありますか?」なんて馬鹿で律儀すぎるメールを送ったのに、君はすぐに返事をくれた。
つまらない焼きもちを焼いて困らせたりもしたのに、君はただぎゅっと抱きしめてくれた。

夢の中でもどこでも、いつでも僕の中には君がいた。
僕の青春の全てだったから。

君がいなくなったのは、本当に突然だった。
いつもみたいに、君に会いに行ったら、君の姿がなかった。君がいなかったことなんて、今まで一度だってなかったのに。

君がどこに行ったのか、いろんな人に聞いて回ったけれど、君のことを知っている人は誰もいなかった。
まさか、本当は君なんて存在していなくて、全部僕の妄想だったのだろうか。

いや、そんなはずはない。

朝一番、笑顔の「おはよう」とか、
一緒に食べた手作りのお弁当とか、
夕暮れの中、帰りたくないと引き延ばす時間とか、
星を眺めながら電話で言った「おやすみ」とか、

そういう幸せな気持ちが全部なかったなんてことは、ありえない。
それなのに、君がいないと言うことだけは、ただひたすらに真実だった。

もうあれから、15年も経ったのだ。
僕はいろんなことを知ったし、経験したし、多分、それなりにちゃんとした大人になった。

君がもし、また僕の前に現れてくれたなら、いなくなったことを責めもせずに、ただ「元気でよかった」って優しく笑える自信がある。

もちろん、そんなドラマみたいなことが起こるわけない。
初恋は、実らないから初恋なのだ。

でも僕と君は、再会を果たした。僕の親友の彼女の友達が、君だったのだ。
あの日たまたま、親友とその彼女と一緒に僕の家に遊びに来たのが、君だった。

15年ぶりに再会した君は、変わらずに美しかった。
聞けばモデルをやっていたらしい。通りで美しさに磨きがかかっているわけだ。

「道沿いの看板とか、そういうたいしたことないモデルだけどね」と笑う君の笑顔は、あの日と同じものだった。
こんなに美しい人が看板に写っていたら、きっと誰もが恋をしてしまうだろうと思った。きっと僕も、君との出会い方が違っていれば、看板に恋する哀れな青年になっていたに違いない。

でも僕は、看板の向こうの、本物の君のことが好きなのだ。
そうしてなんとか、君と二人で会う約束をしたわけだが……。

僕はグラスの中の水を飲み干した。薄まったコーヒーの味が、やけに不味く感じた。その時だった。

「ごめんね、待った?」

と、声がして振り向くと、君がいた。

「全然」

だって僕は、君のことをずっとずっと、15年も待っていたのだから。

おしまい

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