わかめ

何でもない朝のことである。早起きが得意な自分は、いつも6時には目を覚ます。季節によってはまだ日が昇り切らない時間。夜の残り香が心地よいのだ。
その日もまた、いつも通りの時間に布団を出た。白んだ空を眺めた後、朝食の支度をする。白米と、味噌汁、それから納豆。これもいつものメニューだ。6時に炊き上がるようセットした炊飯器から炊き立てのご飯をよそう。味噌汁は、手軽にインスタントのものだ。今日はわかめの味噌汁にしよう。お湯を注ぐと、味噌の香りが立ち込めた。それから、小粒の納豆を手早くかき混ぜる。完璧な朝食だ。
手を合わせ、小さな声で「いただきます」とつぶやく。もちろん最初は味噌汁から。箸を湿らせ、お椀を口へと運ぶ。その時だった。

「昨日夢でお会いしたわかめなんですけど、覚えていますか」

味噌汁から声がした。馬鹿な。まだ夢でも見ているのだろうか。
お椀の中をじっと見つめる。味噌汁に反射して映る自分の顔は、あまりにも情けなかった。
いや、待てよ。味噌汁から声がするわけがないのだ。箸とお椀を机に置き、深く深呼吸をした後、改めて「いただきます」と言った。何もなかったことにして、もう一度朝食を始めよう。箸を湿らせ、お椀を口へと運ぶ。その時だった。

「昨日夢でお会いしたわかめなんですけど、覚えていますか」

ああ。もうごまかしようがない。味噌汁から声がしたのだ。正確に言うと、味噌汁に入っているわかめから声がしたのだ。
わかめが出てくるような夢なんて見ただろうか。虚空に目線を落とし、思案にふける。

そういえば、そうだ。夢の中で自分は魚になって海を一人泳いでいた。濁った、あまりきれいではない海だった。周りに魚の影はない。どことなく寂しかったのを覚えている。だが、息が苦しくなることもなければうまく泳げないこともない。昔から水泳が苦手だった自分にとっては、夢みたいな気持ちだった。まあ、夢なのだが。
しばらくスイスイと泳いでいると、遠くの方で助けを呼ぶ声がした。これまたスイスイと泳いで近付くと、そこには絡まったわかめがあった。

「助けてください。絡まってしまってどうにもこうにもならないんです。このままでは、息が出来なくて死んでしまいます」
「これは大変だ」

絡まったわかめをほどくのは、小さな魚の口では大変な作業であった。だいぶ長い時間をかけてほどき終わると、わかめは何度も礼を言った。

「このご恩は忘れません」

とわかめが言ったところで、目が覚めた。5時59分のことである。なるほど、あの時のわかめがこの味噌汁に入っているということか。
夢の内容を思い出したところで、また味噌汁から声がした。

「あなたにご恩を返したくて、こうして味噌汁までやってきたのです。あれから私はたくさんの子を産むことが出来ました。あなたのおかげです」

つまりあれは過去の夢を見たのか。なかなか面白い話である。深く考えることを止めた頭では、どんな話でも受け止められる。

「どうぞ私をお食べください。そうすれば、きっとあなたに良いことが起こるでしょう」

それきりわかめは何も言わなくなった。しゃべり続けると食べづらいと思っての配慮だろうか。深く考えることをやめた頭で、味噌汁をグググと飲み干した。

その日、混雑した通勤電車でたまたま座ることが出来た。一度も赤信号に引っかからなかった。昼食の唐揚げをひとつおまけしてもらった。なんとなく買ったスクラッチで200円が当たった。帰りに寄ったコンビニで親切な店員の挨拶に癒された。夜、適当に味付けをした野菜炒めが奇跡の美味しさだった。

これらの出来事がわかめのおかげかはわからない。あるいは、深く考えることをやめた頭では、小さな幸せを感じやすくなるのかもしれない。

おしまい

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