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「生活をする」というのは自分自身を大切にするということだった。

娘が産まれてからの4年間で、それまでの35年間を超えてしまったんじゃないかというくらい「幸せだなぁ」と思うようになった。

べつに、それまでの人生が幸せじゃなかったということではなくて、(それまでだって充分に幸せだったわけだけど)意識の中や、言葉にしてしみじみと思うことが増えたのです。
この気持は、娘がいてくれることで感じるのかなと思っていたのだけど、あるふたつの記事をたまたま同時に目にして「それだけじゃないな」と気がつきました。

ひとつは、はしかよこさんのこの記事。


そしてもうひとつが、山田太郎@図解書きさんのこの記事。

このふたつの記事を読んで、子育てをすることがなんで、ぼくの中で幸福感を高めてくれているのかがするりと納得できた気がします。

子育てをしていると、自由はなくなるし、仕事に全力投球だってなかなかできない。自分だけでのんびりする時間も、本を集中して読んだり、休みの日にボケーッと過ごしたりすることだってできなくなる。

なのになぜ、そんないまは失われてしまった数々の自由を持っていたはずの独身時代よりもいまのほうが幸せだと思うのか。
その理由がわかった気がしたのです。

子育てを通じて、ぼくは「生活をする」ようになった

はしかよこさんの記事の中に出てくる「生活をしなさい」というインド人の言葉。
娘が産まれて、大きく変わったのはまさにぼくが「生活」をするようになったことなんだと思いました。
正確には、結婚をして独身時代よりも生活に力を入れるようになった。
娘が産まれてしばらくの間は、子育てに必死過ぎて、とても生活に集中できていなかった。

この時期は、娘のこと以外は機械的にこなしているだけだった気がします。それは幸せではあったけど、幸せを味わうほどのゆとりはまったくなかった。

それからしばらくして、娘との生活にも慣れて、生活にリズムが生まれてくると幸せを感じることが少しずつ増えていきました。

そして京都へ移住。ぼくの中で家事はこなすべきタスクではなくて、生活を楽しむプロセスそのものになっていった。

たとえば、ぼくは妻にご飯をつくるのが好きだ。
あり物で雑につくった日常飯でも、うまいうまい、と言いながらぺろりと平らげる妻を見ていると幸せな気持ちになる。

たとえば、掃除をしたあとのさっぱりした部屋が好きだ。
その部屋で、わざわざ珈琲を豆から挽いて、時間もかかって面倒なのに几帳面にドリップで淹れた珈琲を飲むのが好きだ。

合理的とか、効率的というところとは別に、それは生活を楽しんでいるってことなんだと思う。

「生活をする」とは自分自身を大切に扱うこと

「生活をする」というのは、身近な人を大切にするということでもあるのだなと、山田太郎@図解書き さんの記事を読んでもうひとつハッとした。

そして、身近な人とは家族のことだとずっと思っていたのだけど、実はその中心には「自分自身」がいたんだと気がついたのです。
だから「幸せ」だと感じるんだなと。

子育てや、家族を通して、ぼくは生活に対してマインドフルに集中するようになった。そしてそれは、家族のためだけでなく、自分自身をとても大切にするということでもあったのです。

娘が産まれてから「ぼくや妻が体調をくずしたら、一気に家庭が詰む」とめちゃくちゃ実感したので、食事や運動、睡眠にも気をつけるようになった。
それは、娘や家族のためである一方で、ぼく自身を大事に扱うことにつながっていたのです。


家族のために自分を犠牲にしていると思うと、結婚や子育てって辛いんだろうなって思う。だけど、大切にする家族の中にちゃんと自分を含んであげたら結婚や子育ては「生活をする」いい機会になる。

この記事をふたつ同時に目にしたことで、なんだかとても納得感を得られました。うん、いい記事に出会ったなぁ。

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今日も、見に来てくれてありがとうございます。
「生活をする」って本当にいいなぁ。わりとフツウのことなはずなんだけどね。
ぜひ、明日もまた見に来てください。


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