自発的に思う「何かのために」は素晴らしい力だけど、強制される「何かのために」は時につらいだけ。
「何かのために」という気持ちって、その出どころによってまったく違った意味をおびてきます。
そう、自発的に思う「何かのために」は素晴らしい力になるけど、強制される「何かのために」は時につらいだけ。
それは仕事、社会活動やボランティア、家事。
あらゆることに繋がると思ったんです。
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たとえば、お金。
何かで稼げる、というのは大きなモチベーションにつながる。
たとえば、SNSのリアクション。
スキ、いいね、アクセス数がアップすることはとてもうれしく誇らしい。
だけどこれって麻薬のようにすぐに慣れてしまう。
最初は1,000円で嬉しかった報酬も、5,000円もらえるようになると1,000円では満足できなくなる。スキ、いいね、アクセス数も同じで全てはいまを基準に、それよりも高いものを欲してしまう。
それは自分で意識していなかったとしても、「強制される何かのため」にあたると思う。強制してくるのは、お金やリアクションだ。
一方で、その行為自体が目的や楽しみの場合。
書くこと自体が楽しかったり、書くという行為から得られるもの(文章力や物事を整理する力、伝える力など)に価値をおいているとしたら。
眼の前の、報酬にゆさぶられることがなくなっていく。
そりゃ、外からの報酬は大いに自分を励ましてくれる。
でも、それとこれとは別問題なのだ。
この内発的な動機が自分の中に見つけられると、探究の世界への一歩を踏み出すことができる。
この動機づけは、子どもと接するときも大切になる。
ぼく自身は最近ようやく、何かにのめり込むという感覚を味わいはじめた。
行為自体が楽しい。たとえ評価が得られなくてもやめようとは思わない。
そんな感覚を、親が知っているというのは、実は大切なのかもしれないなと思う。
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今日も、見に来てくれてありがとうございました。
いま読んでいる動機付けの本を、自分のなかでなかなか消化できないでいます。もう少ししっかりと消化して、この動機付けについて考えを深めていきたいです。
ぜひ、明日もまた見に来て下さい。
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