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「楽しむ」は最強なのか? 『論語』を読む

先日SNSより、孔子の言葉「努力する者は楽しむ者に勝てず」が回ってきました。なるほど上手い表現だなと思いました。が、時間が経つにつれてどうもしっくり来ません。勝ち負け2元論、「努力」が下に見られている様で違和感があり、原文『論語』を読んでみました。


子曰く、
「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」
先生がいわれた。
「学ぶにおいて、知っているというのは好むには及ばない。学問を好む者は、学問を楽しむ者には及ばない」
齋藤 孝 翻訳 『論語』筑摩書房 P120-121

原文を見ると「好」を努力と意訳されているようですね。
念の為、漢和辞典で「好」を調べても努力は含まれておらず、語源も女性が子供を抱える愛情姿勢との事。

なんだ。原典から離れた訳じゃないかと一瞬思いましたが、今は違います。


何かで読んだのですが、論語は、何度も噛みしめるほど味が出るスルメのようなものだと。その通りで、読んだ人がその時その場面で感じ取り、強めの意訳も許容される懐の深さが感じられます。

また、表現としても、勝ち負け二言論感で「楽」が最上級に強調され、上手い事に変わりはありません。


なので、このnoteを書きながら思ったのですが、意訳「努力する者は楽しむ者に勝てず」で、覚えることも有りだなと。
実際、イメージが容易で覚えやすいですしね。


書道-OBLC0-unsplash

                    @ 五玄土 ORIENTO on Unsplash


ただ、よくよく考えると、「」と「」の違いは、何でしょうか?


例『好きだから続けられます。(なんだか楽しそうだ。)』
小説・ルポで見られる定型のように、好きはそれ自体が楽しむ事を含んでいると思えるのですが、

孔子は二つをどう使い分けていたのでしょうか?


日本漢字能力検定協会HPによると、「楽」の源は、お祈りに使われる道具との事。にぎやかな音で神様を楽しませることから、たのしいを意味。


ここから偏りある私見ですが、
この語源イメージから、神様を楽しませる=アウトプットが「楽」ではないかと。

好きよりも能動的で、第三者に影響を与える感じが「」と思えます。


原書の学ぶに際しても、このアウトプット感が最強だと孔子が言っているように思えるのですが、皆様いかがでしょうか? ← 最後、投げやり笑


いずれにしても、論語は何かと自身の状況にささる一文が見つかる歴史的名著ですので、一読をオススメさせて頂きます。


それでは!












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