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現代小説訳「今昔物語」【紀貫之、土佐を発つ】巻二十四第四十三 土佐守紀貫之、子の死にたるに和歌を読みしこと 24-43

 今も昔も、大事な人を失う悲しさは、日常を背景とした時に先鋭になるものでございます。「古今和歌集」撰者、「土佐日記」の作者として有名な紀貫之も、そんな悲しみを和歌にのこしているのでした。

 あそこにおもりをぶら下げて雀小弓の的にしたものだな、と思って後ろの壁をよく見ると小さな穴がいくつか空いていた。穴の一つ一つを指でなぞると、亡き子の声が聞こえてくる。「父様、当たりましたよ!」弾けるような声。
 土間にいくつか小石が落ちている。すると石投いしなごをする息子の姿が目の前に浮かび上がる。石を数個下に置き、一つを高く放り上げる。その石が落ちてこないうちに置いた石を拾い、落ちてきた石を受ける。単純な遊びだが、息子は何度も何度も繰り返していた。その様子を見て家のものは「根の強い子ですこと」と笑った。
 貫之は立ち上がった。約五年に渡り住み慣れたこの家も、すっかり物がなくなると違った家に迷い込んだ感覚にとらわれる。が、ほんのちょっとした傷、落ちている小石に、亡くなった我が子の面影が重なる。年は七ツばかりだった。ふとした病を数日患わった末に、あっけなく死んでしまった。その数カ月後、土佐守としての任期が終わり新しい国守が着任したので、いよいよ京に発とうという最後に、貫之は家の確認に来たのだった。忘れ物はないか、それだけのつもりだったのに、あの子がここでこうして遊んだ、あそこで笑っていた、そこで泣いていたと思い出されて立ち尽くしていた。

 みやこへと思ふ心のわびしきはかへらぬ人のあればなりけり
 都へ帰るとなれば楽しいはずなのに、これほどわびしく思われるのは、帰ることの出来ない子が、いるからなのだ。

 気づくと、柱に和歌を書き付けていた。読み返しても、自分で詠んだ和歌のような気がしない。よろめくようにして、貫之は家を出た。この家も、もう他人のものになる。京に帰ろう。
 しかし、貫之の悲しみは、都に上った後も消えなかった。柱に書き付けた歌は今も残っていると語り伝えられている。


ちょこと後付

土佐日記では、亡くなったのは女の子と記されています。
それにしても柱に和歌を書きつけるって、筆で書いたのですよね。当時は柱の表面も加工してないから墨も染み込んで残りやすかったということか。土佐守の任を終えるときであれば、古今和歌集はとっくに完成してますから、紀貫之が書いた和歌が残っていれば、さぞ価値があったことでしょう(じゃなければ前に住んでいた人の落書きなんて最悪です)。
ちなみに、土佐日記はこの後。土佐から京へ帰る道中を日記として描いています。

土佐日記 - 『二十七日。大津より…』 (原文・現代語訳)

原文はこちら

原文に忠実な現代語訳はこちら


【参考文献】
新編日本古典文学全集『今昔物語集 ③』(小学館)