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現代小説訳「今昔物語」【妻がゾンビに!?】第二十四巻二十話 人妻悪霊となり、其の害を除きし陰陽師のこと

今も昔も、男女の別れに恨みつらみは付きものなのでございましょうか。ここに登場しますは、捨てられ恨みを残す女の死霊と、何とかしてそのたたりから逃れようとする男と、そして陰陽師。さて、男の運命や、如何に。


 男が、うつ伏せに横たわる女の背にまたがってからどれくらい経ったろうか。男の思考も覚束おぼつかなくなっている。ただ、右の手に巻き付けた女の髪の毛を放していけないことだけを思念の中心に据え、男はじっと耐えていた。
 尻に女の背骨がごつごつと当たって痛い。かといって足に体重を移し替えるのも恐ろしい。体重を載せて尻で押さえつけておかないと、先程から女の身体がぐにぐにと動いて今にも起き上がりそうなのだ。
 動きは次第に大きくなり、ついには腕もばたばたがりがりと土をえぐり始めた。肉がないのでその分硬いものと土がこすれる音が響く。目の前で大きな肩甲骨がごにごに動いて肩に大きな骨があるのは馬も人も同じなんだなとつい呑気なことを考えていると、
「ああ、重たい」
女が生前とまごうことなき声で突然喋ったので、男は右手にぐるぐるとまいた女の髪の毛をもう一度握りしめた。陰陽師の言いつけを頭の中で反芻はんすうする。
「わたしが戻るまでこのままでいてください。必ず恐ろしいことが起こります。我慢して髪の毛は離さぬようにしてください」
 若い陰陽師で、全然偉そうでないので信頼して依頼したのだが、結果、男は死んだ女房の死体の背にまたがり、決して離してはいけないという髪の毛を右の手にぐるぐる巻にしている。これで良かったのだろうか、ため息をつくと男の何かの力が抜けたのか、今度は死体の左手、両足までもばたばたと動き始めた。
 思わず左手で死体の肩を、先程馬と同じだなと感心した肩甲骨を押さえるとがきがき音がして女の顔が横を向いた。目が真っ青に光っている。この光が、女の死体以外何もないこの荒屋あばらやに夜な夜なともり、不審に思った隣の者が隙間から覗き見したのが三日前のこと。女房が死後も髪の毛が抜け落ちず骨もばらばらにならないままにいることが女を捨てて都に暮らしていた男の耳まで届くまでたったの三日しかかからなかったのである。
 女の身体は死んだが生霊いきずたまはまだあの世に行けずにとどまったか。あるいは女の魂が獄卒の目を盗んで三途さんずの川を渡り戻ったか。女を捨てて都に行った己の業であろうと男はたたりをまぬがれることはできないかと、若い陰陽師に相談したのだった。
「ああもう、本当に重たい」
 声が若返っている。骨と皮ばかりの見た目からは想像もできないような、澄んだ声。かつて、男が聞くだけで、何なら男をそしる言葉でさえ惚れ惚れと聞い入ったかつての声。
 だが、男が感傷に浸る余裕などない。死体は腕をたたみ胸の下に手をあてがうと、軽々と立ち上がったのである。
 髪の毛さえ握って背に乗っていれば馬を御すようにしてこの尋常ならざる死体を抑えていられるのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、見当が違った。だが、何とか悲鳴を上げること、髪の毛を話すことだけはこらえた。堪えるだけで必死で、生きた心地もしない。
「よし、あいつを捜してこよう」
 あいつとは、俺のことか。恐らくそうであろう。この髪の毛を離したら今すぐ死ぬ、男は確信した。
 死体はずんずん歩き始めた。歩くだけでなく、走り始める。はるか遠くまで行く。男は陰陽師の教えに従って髪の毛をつかんで一緒に走った。女は足が速い。村の駆け合いにも女ながらに参加して最後までついていったこともある。それが、まるで疲れることを知らぬ身体でずんずん走る。男は必死だった。足を、膝を腰まで上げて腕もぶんぶん振らねば置いていかれそうだ。しかも右手は死体の髪の毛を握っているので振れない。その微妙な左右非対称の動きも体力を奪っていく。そうして十里(一里は3.93km)は走っただろうか、いつの間にかもとの荒屋に戻ってきて、死体は前のように横たわった。
 男は恐ろしいよりもとにかく疲れ果て、気配を隠す余裕もなく、女の背にどっかりとまたがるとぜえぜとあえいだ。あごからしたたり落ちた汗がぼたぼたと女の乾いた皮に落ち、流れることなく吸われていく。
「ああ、重たい。何か、冷たい。ああ、ああ」
 横たわった後も女の身体はがしゃがしゃと動いて喋るので恐ろしいなんてものではなかったが、息をするのもやっとの体で髪の毛を離さぬようにして必死に抑え込んだ。
 やがて、鶏が鳴くと、死人はぴたりと動くのをやめ、静かになった。
 日の出とともに、若い陰陽師がやってきた。
「どうやらその様子では髪の毛は離さずにいたようですね。さぞや恐ろしかったことでしょう」
 男は声を発する気力もなく、力なく頷いた。
 陰陽師は女の額に星印が描かれた紙を貼り、九字の印を結んだ。
「今、式神を打ちました。もう髪の毛を離して立ち上がっても大丈夫ですよ」
 男が立ち上がると、陰陽師は、失礼、と言って男の髪を少し削いで死体の胸に置き、祈祷した。すると、死体から決定的な何かが失われ、骨はばらばらに崩れ、髪の毛がはらはらと抜けた。最早もはや、人の形も成していない。
「この方があの世に行くに当たって契りを結んだあなたの一部をもっていく必要があったのです。もうけっして恐れる必要はありません。あなたはあなたの業を果たしました」
 それを聞くと、男の目から涙が一粒流れ、あ、俺泣いてると思うと、後から後から涙が流れ出た。あれだけ汗をかいたのにこれだけ水分が出るのだと自分でもあきれるくらい長いことさめざめと泣いた。
 陰陽師は、男の右手に女の髪の毛が埋まっていることに気づいたが、悪いものでもなさそうなので放っておいた。男がそれで困ることになったらまた自分のところに来るだろうし、来なければそれはそれで世の条理の内ということだ。
 
 その後、男は何の病気をすることもなく長生きをしたという。
 陰陽師は後に鬼との戦いに敗れ命を落としたが、子孫が大宿直おおとのいにいて、大内裏を守っているという。

ちょこと後付

 物語の最後、陰陽師が女性の死霊を祓うような呪を唱えますが、祓ったあとの遺体はそのまま放っています。男も、あれだけ怖い思いをしたのだから遺体を丁重に弔うかと思えばそんなこともなく、家の中に放置して帰ります。現代からしたら違和感を覚える行動です。
 当時、遺体は風葬(鳥葬なども)がほとんどで、土葬や火葬はされなかったそうです。遺体はこの辺に、という区画が決めれていてそこに放置したとか。当時の人々にとって遺体はモノに近い感覚で、亡き人を偲ぶものというより、死の穢れを恐れるものという認識が強いのです。死者が出たらその家には三十日近寄ってはならないとか、きめ細かく決められていました。
 陰陽師が死霊は祓ったので、残った遺体はそのまま風葬にしときますか、そんな感覚で遺体については放置されたのでしょう。 

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も「死骸に乗る者」として小説に書いています。

原文はこちら 巻24第20話 人妻成悪霊除其害陰陽師語 第二十

原文に忠実な現代語訳はこちら 第二十四巻二十話 悪霊になった元妻の話