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現代小説訳「今昔物語」【達人同士の業《わざ》比べ】巻二十四第五話 百済川成、飛騨の工に挑むこと 24−5

 今も昔も、達人同士の業比べというものには眼を見張るものがあります。素人にはものすごく高いレベルの比べ合いでも、達人同士は純粋にただ楽しんでいるだけということもしばしばあるものです。

 「あぐり? ああ、川成かわなりか。川成はたいしたもんだよ。渡来人の子孫だけど、絵を描かせたらそりゃあ立派なもんで、いなくなった童を従者に捜させる時にさらさらと絵を描いて、これに似た童を市で捜して来いって渡したんだって。それで見つけてきた童と絵と比べたら、違うところが一つもなかったっていうからたいしたもんだよ。だから、武人だけどお寺の屏風絵なんかも依頼されて描いててさ、どの絵も生きているように見えるって話だよ。滝殿の石もあいつの設計だよ。滝の流れが白く波打つように、あんなに狭いのにうまいこと設計してやがらあ。
 こないだ、あいつに仕掛け堂を見せたんだよ。ほら、入ろうとすると扉が閉まる一間四面の堂があったろう? あれを見せたら入ろうとしては閉まる。横の扉から入ろうとしたら閉まる。その繰り返しでお堂の縁をぐるぐる回って、まあ、あいつはとにかく一途いちずな男なんだろうな。普通の奴なら二、三回も目の前で扉が閉まればはかられたと考えてこっちに文句の一つも言い始めるんだが、川成は何度も何度も、そうさね、二十は入ろうとしたかね。最後には諦めて縁から降りたんだが、あんなに根強い男はそうそういないさね」
 飛弾ひだたくみは、酒のつまみにとうとうと川成のことを話した。工自身も、平安京遷都のときから名を知られる工匠である。工匠と絵師、互いに無から有象うぞうを生み出す者同士、どこか馬が合って付き合いが続いている。工の周りは無骨な職人気質が多いから、武人でありながら画家としても有名な川成の話を工にせがむことが多かった。

 その川成から誘いがあった。家に来てほしい、お見せしたいものがある、とのこと。どうせ仕掛け堂のお返しだろうと無視していたが、数度に渡って、しかも使いに土産までもたせて丁重に誘うので、工も重い腰を上げた。
 来訪を告げると、家の者が「こちらへ」と案内する。いつもの部屋の方ではなく、反対の方向へ連れて行く。
 廊下には日が当たらず、暗い。庭は手入れは行き届いているが、木々の背が低く石に苔が生している。職業柄、もっと日を取り入れるひさしの作り方があるのであろうに、柱の組み合わせの細工はまあまあだが設計がよくないなどと考えながら歩いていたら、案内するものが、「こちらへお入りください」と引き戸を指した。
 言われるままに戸を開ける。すると、すぐそこに黒い塊が転がっていた。何だろうと、思わず一歩近寄った途端、人だとは分かった。確かに人だ。人だが、何だこれは。全体に黒い。黒くてよじれている。腐れて黒ずみただれた皮膚、腫れ上がった腹、何の表情も残さず見開かれた眼、数本残る歯だけがやけに白く、手足は不自然な方向にねじれ曲がっている。鼻の一番奥のところで異臭が弾ける。そこまで、一瞬の思考であった。
「ひいっ」と思わず声を上げて庭まで飛び退いた。息を吐いて、もう一度部屋を見る。確かに、人が死んでいる。しかし、先ほどとは少し様子が違うようだ。と、引き戸の横から川成が、にこやかな顔を出してきた。
「どうしてそんなところに立ってるんだ? 入ってこい」
「入ってこいって、それは」
 ためらうと、川成は声を上げて笑った。
「いいから、入れ。入ればわかる」
 おそるおそる部屋に戻ってみると、川成が死体の上あたりで手を動かした。
「これでどうだ?」
 かたん、と音がして異臭を放つ死体として目の前にあったものが、平板な、一枚の絵に変わった。工が異臭すら感じて死体と思ったものは、何のことはない、衝立に描かれた絵だった。
「これは、なんと・・・?」
 よく見直すと、確かに絵だ。絵だが、詳細でやや歪んだ絵だ。それが、日が直接当たらぬこの部屋で、外から見ると微妙な光の加減で本当にそこに死体があるかのように見える。
「これは、影の描き方が・・・それに、入口辺りから、そう斜めに見た時にまるでそこにあるかのように見える」
 嘆息して工がつぶやくと、川成は、
「さすがに眼がいいな。先日の仕掛けお堂のお返しだよ。絵にも様々な仕掛けがあるということだ」
 と楽しげに言った。
 また酒の席で盛り上がる話ができたな、と工も楽しそうに笑った。

ちょこと後付

 原文にも絵を見ただけで死臭を感じてしまう描写があります。当時は飢饉や戦乱で都が荒れると大路に死体が転がったまま放置されたと言いますから、死臭は身近なものであったのでしょう。そして、そんな臭いの記憶を刺激してしまうくらい川成の絵は写実的だったのだと考えられます。
 本話でも触れられている滝殿の石ですが、嵯峨の大覚寺の滝殿とする説があり、現在は「名古曽なこその滝跡」として観光名所の一つになっています。名前の由来は「百人一首」に残る次の和歌によります。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
藤原公任 小倉百人一首 55番

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