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現代小説訳「今昔物語」【土神VS陰陽師】巻二十四第十三話 慈岳川人 地神に追われること 24-13

 今も昔も、禁忌を侵すことで祟られるという話型は、理不尽ながらも、その理不尽さが故に魅力があるものでございます。禁忌を侵して痛い目に遭うという原体験が、誰にしもあるからでしょうか。さて、ここにも、入ってはいけない地を踏んでしまった大納言がいたようです。 

 深草には小さな川が流れている。川沿いの道を僅かな供の者を連れて安仁やすひとは馬を常足なみあしで進ませていた。帰路、急ぐ必要はない。
 御陵の地を点定てんじょうせよと命が下ったのが三日前。この広さの土地をくまなく見て回り、荘園領主とやり合い、正確な税の取り分を確認して回るには短すぎる期間ではあったが、それも漸く終わった。
 最近の農民は武装しており、ともすれば国の役人相手にも武力で我を通さんともしかねない気配が漂っている。大納言安倍あべの安仁やすひとと言えども、決して安全とは言えなかった。そこで、身辺を警護する武人を二人、呪詛から守る陰陽師を一人、連れて回っていた。
 陰陽師の名は慈丘しげおかの川人かわひと。年をとっているが、その分経験も豊かであり、強面の領主とのやり取りでは間に入ってぼそぼそと何かを唱えて領主が喋られないようにし、また、人型の紙切れを風に飛ばして巧妙に隠された小道の先にある隠田かくれたを発見するなど、何かと役に立つ男であった。

 その男が安仁のそばへ馬を寄せ、右へ左へ視線を走らせ、額にうっすらと汗を浮かべている。
「川人よ、どうした? 何か落ち着かない様子だな」
 今回の点定による働きで、安仁はこの男をすっかり信頼していたので気さくに聞いた。ところが、川人の表情は険しいままである。
「安仁様、わたしはとんでもない誤ちを犯しました。方位を見誤り、土公人どくうじんの禁忌を侵してしまったようです」川人はさらに馬を寄せてささやいた。「土地の地神つちのかみが周りを囲ったままずっとついてきています」
 言われて安仁は周囲を見回したが、小川沿いの道が広がるごくのどかな風景が広がるだけである。
「どこだ?」
 川人がいると言うのなら、いるのであろう、そこに安仁やすひとは疑問をもたなかった。不確定な状況が生じた時、判断を保留して次に備える機微が安仁にはあった。というより、そのような機転が利かなければ、武士や貴族や怨霊がうごめく京で頭一つで生き残れない。地神つちのかみがいるという判断は川人に完全に委ね、次に成すべきことを探る。安仁の思考はそのように働いた。
「見えぬと言えども有るのが鬼神でございます。暗いところ、影になっているところを背景に透かしてみれば捉えやすいかと。そこの向こうに山が見えるところをじっと御覧ください」
 川人が言うように緑というより黒黒と見える遠くの山をじっと見据えると、「なるほど」と安仁は思わずうめいた。暗いところを背景にすると光がゆらゆらと揺れているのがわかる。何か透明な、巨大な何かがゆらゆらと馬と並ぶようにして移動している。
「こちらはわかりにくいかもしれませんが、川の上にも」
 もう囁くのをやめた川人が言う。川の上は明るく、よくわからない。
「水面を御覧ください」
 すぐに察した川人が付け加える。頭が回るし、よく気が利く。水面に目を凝らすと、なるほど確かに魚の尾が水面を叩くかのようにぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ、と水が跳ねる。それは、何かが水面を歩いているかのようにも見える。その一体だけが水面が暗く、安仁《やすひと》たちの動きに合わせて移動している。これを見ると、さしもの安仁も肝が冷えた。
「鬼神のことはわしには分からぬ。どうすればよい? 助けよ」
「そうは申しましても、土公人相手では…。しかし、こうしていても死を待つばかりです。うまくいくかは分かりませんが、隠形の術を講じてみましょう」
 川人は警護の付き人は皆先に行かせ、しばらくここでお待ち下さいと安仁に言い、あちらこちらへと馬を歩ませていた。やがて夕暮れになる頃に、よい場所がございましたと安仁を川から離れた田の中への案内する。馬から降りて立つと、何やら気持ちの良い風が吹き抜けた。川人は馬の手綱はどこへも結わえなかった。
「馬は安全な場所を本能で探します。放っておいて大丈夫です。そこへ座ってください」
言うと、そこらに置いてあった刈り取った稲を安仁を覆うのようにしてかけてくる。安仁はしかし、されるがままであった。川人の人となりはこの旅で信頼している。陰陽道のことは分からないが、この場所は鬼神を避けるに相応しい場所であり、この稲も必要なことであろうと得心していた。川人は何やら呪《しゅ》を唱えながらぐるぐると周りを回ったかと思うと、稲をかき分け入ってきた。その体が恐怖で震えているのを感じ取り、初めて、これは死ぬるかもしれないな、と恐怖が心の奥底に住み着いた。

 すっかり夜も更けたかと思う頃、何千人もの足音が通り過ぎるようなざわめきが辺りを包んだ。川人が声も発せずただ身体を硬直させて息を殺していたので、安仁も同じようにただ耐えていた。もう行ってしまったかと思うと、何人かが引き返して何やら言い合っている。人に似てはいるが、絶対に人ではないと分かる声である。
「この辺りで馬の足音が軽くなったのだ。ここらで馬を降りたに違いない。周辺の土を一、二尺掘り起こして搜せ」
「川人は最近の陰陽師にしてはやる男だ。隠形の術を打ったのだろうが、逃してなるものか」
 そうして、辺りの土を掘り返す音が、向こうで、こちらで、すぐ横で、ざくり、ざくりと繰り返される。安仁が思わず身動ぎすると、川人がその腕をそっと押さえた。そのまましばらく経った。
「今日、隠れおおせても彼奴きゃつらを逃してなるものか。十二月の晦日みそかの夜半には、天下くまなく、土の下、空の上、およそ目のかかる全てを捜し尽くそう。然らば、その夜は皆集まって来い」と声がしたかと思うと、風が稲を吹き飛ばさんばかりに吹き、一瞬に静かになった。
 すぐに、川人が稲の中から出たので安仁も続いた。辺りの土は掘り返されているのだろうと思って見たが、何事もなかったかのように、ただただ田が広がっているだけである。
「土を掘り返すまやかしの音を聞かせていただけでございますよ。我々を怖がらせて出てこさせようとしたのでしょう。この稲の周辺に結界を張っていたので、我々の姿が見えなかったのです」
「これからどうしたらよい。言っていたように捜されたら、我々は逃げるすべがない」
「正直に申しまして、わたしには土神を祓ったり退けたりするほどの力はございません。わたしでなくてもどの陰陽師にも、そんなことは不可能でしょう。その夜は、絶対に人に知られないようにして、二人だけで完全に隠れるしかありません。その時が近づきましたら、詳しくお知らせ申し上げます」と言うと、鈴を一度、りんと鳴らした。すると呼ばれたかのように馬が歩いてきた。安仁はもう驚くことにも疲れ果てた心地がして、馬のもとへ歩み寄り、各々家に帰った。

 その後、晦日の日。川人は安仁の家にやってきて、「絶対に人に知られることがないようにして、一人だけで、二条大路と西大宮大路の辻に、日暮れ時においでください」と言う。相変わらず、なぜもどうしてもどのようにもない。しかし、陰陽道には陰陽道なりのことわりがあるのだろうと、安仁は、言われるままに、日暮れ頃、町の人々が忙しく行き交うのに紛れ、ただ一人で言われた辻に行った。
 川人は前もってそこに立っていた。
 だったら家から一緒に来れば良かったのではないか、と思うが、川人が何も話さぬようにと人差し指を口にあてうなずくので口にはしない。無言の川人が歩むのについて行くと、そこは嵯峨寺であった。予め話はつけてあったのか、二人が入っても誰も構うことがない。川人が導くままに、お堂の天井の上によじ登り、天井裏に座した。
「そこにこのように座ってください」
 ようやく喋ったかと思うと川人は具体的に指示を出した。
「その足を崩さぬように。手はこのように印を結びまする。左様さようです。そして真言を唱え続けてくださいませ。真言はそらんじておられますか? けっこうでございます」
 そうして、川人も安仁と同じように座り、安仁が唱えている真言よりずっと複雑なしゅを唱え始めた。これを全部諳んじているのか、と思わず感心していると、雑事はおいて一心に本尊を観念くださいませ、と言われた。
 真夜中になったかと思う頃に、気味の悪い変な匂いの生暖かい風が吹き渡った。地震が来たかのようにずん、ずん、と地響きがして天井裏が揺れる。このまま天井裏が抜けるのではないか、という恐怖が真言を止めてしまった。
「喝ッ!」
 川人が独鈷どっこで手をついた。本来なら斬首に値する行為であるが、今は安仁の心には川人への感謝と信頼の念しかない。雑事はおいて一心に本尊を観念する。安仁は一度短く息を吐き、真言を唱えることだけに集中した。
 やがて、鶏が鳴いた。川人が「もう大丈夫です」というので、そろそろと下へ降りた。
「今はもう恐れなさる必要はございません。それにしても、この川人がいたからこそ、このように逃れることができたのですよ」と笑み混じりに安仁の手を指した。手には独鈷に突かれた跡に血が滲んでいる。その傷ですら、今の安仁にはお護りのように感じられた。
「また鬼神でお困りのときは、この川人にご相談くださいませ」
 そう言って去る川人の背を、安仁は思わず拝んでいた。

ちょこと後付

 禁忌を犯しただけでおっかけてくる土神って、怖いですね。何だか「もののけ姫」の冒頭場面を思い出します。

この話の原文に忠実な現代語訳は「今昔物語集 現代語訳」にあります。
原文は 巻24第13話 慈岳川人被追地神語 第十三