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コミュニケーションという摩擦で誰もが『犬』になっている。


実家に帰ってからしんどさが増している。身体のあっちこっちに擦り傷が出来ている気がする。何処で擦りむいたのかは分かっている。父とのコミュニケーションがただの傷つけ合いになっていて、それが傷として残っている。親の権威に従わない子供と自分が最も正しいと信じて疑わない父。きっとお互いが死ぬまでこの戦争は終わらない。摩擦は増える一方だ。

何かしてもらって当然だと考えている人なのだろう。洗い物はそのまま濁ったシンクの中にあるし、買い物を頼まれて買って来ても礼なんて言わない。僕は根本的に分かり合えないという認識で接してしまっている。言っても聞かないのは、今に始まった事ではない。きっと信じるものの全てが違う。

正直に言うと父の金銭的な支援しか愛情を感じていない。お金をくれること=僕を大切にしてくれる、支援してくれる。という歪な思いで僕は従っている。自立出来る手立てが整ったら、僕は父の元から去って居なくなると思う。それまでの我慢だ、ご機嫌取りに必死になる犬のようになろうと決意している。

自分でも気持ち悪いと思う。本当は人になりたい。でも、分かり合えないというジレンマで頭がおかしくなりそうなのだ。成人してから未だに経済的な自立が出来ていない自分が申し訳ないから、犬のような愛嬌を身につけるしかなかった。洗い物や洗濯、ゴミ出しだって買い物だってやる。でも、それでも一人の人として見て欲しかった。

一緒に酒を飲んでも、高い焼肉を食べても、愛情を感じられない。金という玩具でしか僕は尻尾を振らない。何だかとても惨めで、人としての尊厳が死んでいくような気がする。守銭奴と罵られても仕方ない。

例え犬でも家族の一員だと言ってくれる人だっている。本当に人のように大事にしてくれるのだろう。でも、中にはペットという存在としか見ていない家族だっている。人とは別で、犬は家族じゃない。手間が掛かる、面倒を見てやってる存在だと。きっと父にとって僕は家族じゃなくて、手間の掛かる都合の良いペットなのだろう。

これは僕だけの話ではないと思う。皆んな何かしらの『犬』として何かに尻尾を振って、愛嬌を振る舞いているんじゃないか。金や親や、会社や社会という首輪が無いと不安で生きていけない。まさに、犬のような生き方をしている。


僕は人として生きたい。犬より、面倒で屁理屈でも話し合うことが出来る人間として生まれて良かったと思える。何も解決していないけど、この首輪を捨てて、自分の足で何処までも遠くへ走っていきたい。







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