見出し画像

『何者』になりたくて、痛かった。


中学生の頃、僕は厨二病を拗らせていた。自分は他人には無い何か特別な才能があって、その才能が開花し、周りから認められる日が来るのではないかと思っていたが、いつまで経ってもその隠れた才能は一向に発揮されず歳だけを取ってしまった。

大学生になると、周りが個性的な人間を尊重し、敬い始める空気が流れ始めた気がする。流行りの音楽家やインフルエンサー達が称賛され始め、それに付随し誰もがSNSやYouTubeを使っては自分はこんな人間なんだと誇張し始める。別に悪いことでは無いし、今がそういう時代なのだろう。金が稼げるなら尚更その希望に縋りつきたくなる気持ちは分かる。一滴の甘い汁吸いたさに蟻が群がるようなものだと思う。


皆んな、『何者』かになろうとしている。


一種のアイデンティティのようなものなのかもしれない。自分探しの旅に似ているそれは、いつの時代の人間も行なってきたことだろう。自分は何者なんだ、自分とは何かを説明するに相応しい肩書きが欲しいのだと思う。

例えば初めて会う人に、あなたは何をしている人ですか?と聞かれてデザイナーをやっていると答えるように、あなたにとって自分とはどんな人間ですか?と聞かれたら大概の人は考えてしまうだろう。就活の面接では似たようなことばかり聞かれるものだから、自分はどんな人間なのか手っ取り早く説明出来るものが欲しいのだ。そうすれば、肩書きで認められるし、自分のアイデンティティだと言っても過言ではないのだから。

自分の承認欲求の為に人はあらゆる手を屈指する。今の自分だってこれを見てくれている誰かを意識しているからこそ、noteを書き続けている。

皆んな孤独が怖くて、苦しいのだ。世の中に大勢いる才能や天才を持って生まれた人々の中に、埋もれて消えていくのが怖くて惨めで痛くて必死に叫んでいるように見える。自分は此処に居ると、例え埋もれようともその中に自分という存在が居るのだと足掻いている。

何でこんなにも痛々しい感情が沸き起こるのか? きっと他人と繋がりたくて、自分という安心感が欲しいのだと思う。誰かが居て、自分が居る。一人は嫌で、孤独は嫌い。でも認めて欲しいと誰かに泣き叫ぶような無様な真似はしたくない、恥ずかしいから、大人なのに子供みたいって思われたくなくて本音を隠して、肩書きで自分を語る。

今まで世界一周してきました。元有名企業を辞めて独立しました。一ヶ月に〇〇万円稼ぎました。フリーランスやブログで稼いで地方で悠々自適に暮らしていますのような定型分をプロフィールに載せている人間は腐るほどいる。確かに凄いし、他の人には真似できないくらいに素晴らしいことだと思う。でも、別に言う必要が無いのではないかと思うのだ。別に言おうと言わないと自分という存在が特別になった訳ではないし、何者になったとも思わない。


自分は自分にしかなれない』と言うのが今のところの僕の意見である。


僕はいつまでも自分のままだし、才能なんて無くて天才でもないし、特別な肩書きを持っている訳でもない。このまま変わることもなく死んでいく存在だ。でも、自分という存在を認知してこんな自分と食事をしたり遊んだり、困った時は助けてくれる人達がいる。確かに社会に出るとなると、肩書きの力は必要になるし効果も大きい。それが凄ければ凄いほどより多くの人達に認められる。だが、今の自分にとっては肩書きよりも一緒にたわいも無い話をしてくれる人がいたらそれだけで充分だ。綺麗事かもしれないけど本気で思っている。

何者かになりたくて痛いと苦しんでるいるのなら、あなたは『あなた』という存在にしかなれないと言うだろう。酷なことかもしれないけど、他人に認められるより自分を認められる人になり、もっと近くに居て寄り添ってくれる人を大切にしよう。誰にも理解出来ないその『痛み』を抱えて、痛みの分かる人になろうと書いていて思った。







僕の記事が気に入ってくれたらサポートお願いします!皆さんのサポートで新しい珈琲を飲みに行きます。