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「正解」を探す思考と「恥をかきたくない」という感情に対処できるようになるまで

私は日本で生まれ日本で育ち、日本の企業の法務部員として働いてきました。そしてラッキーなことに社費で留学をする機会を得て、約1年半の初めての海外生活をした後で、2023年3月に日本に帰国しました。

留学をする中で何を考えたか、ということについては別の記事を書いているのですが、

この中から「恥をかく経験ができたこと」「正解を探してしまう」ということについて考えていることを、もう少し細かく言語化しようと思います。

私は留学中に恥をかく経験を(半強制的に)積むことができ、多様な価値観の中で「正解」が存在しない事柄が多いことを体感できました。これを経て、今では「正解」と思えるものが見つからない場面でも「自分の意見を積極的にアウトプットしよう」「失敗するかもしれないけどまず行動してみよう」と思えるようになっている感覚があります。

この記事ではそれに至るまでの思考を整理してみようと思います。(また失敗が怖くなったときに振り返れるようにという備忘録も兼ねて。)

留学に行くまで

「正解」を探してしまう思考

上にリンクを張った記事でも書きましたが、日本の教育システムの中で育つと、ある決められた「正解」を求める場面がほとんどで、自分自身の意見を持つ・表明することが要求される場面は多くなかったように思います。それは就職をしてからも、会社や自分の部署というある程度大きな組織で働く中で、その組織が持つ「正解(と思われているもの)」を提示することが要求されていると感じ、それまでと変わらず正解を探す思考でいました。

特に法務部門ではこの性質が強いと思うのですが、仕事をしている中で「自分がどうしたいか」よりも「ルールでどう決まっているか」「前例はどうだったか」という視点での検討がどうしても多くなります。上司も(特に若いメンバーに対しては)メンバー個人の意見よりもそうした「正解(のようなもの)」を探し出し、提示することを求めているように感じていました。

まして自分より経験が豊富な上司・先輩に囲まれていると、複数の選択肢がある場合でも上司や先輩の持っている「正解(のようなもの)」に合致するアウトプットが喜ばれるわけです。契約条項修正や交渉方針検討をひとつとっても、経験が多い上司・先輩の方が自分よりも、場面場面に即した合理的な判断ができる可能性が高いと考えていました。

正直なところ、会社に入って最初の数年間はその「正解を出せ」という要求に応えていくだけで、特に問題はありませんでした。むしろ「正解」を探し出すスピード・正確性、それを論理的に分かり易く伝えられる力が重要視されていると感じていました。

ですから大抵の問題には「正解」があると考え、それを求められたら効率よく正確に分かり易くアウトプットしようとし、それがある程度できる自分に価値すら感じていました。実際、当時はそれを評価してもらえている実感もありましたので。

少しずつ変わる”求められるもの”

入社後数年はそうした「正解」を探す、という考え方・仕事のスタイルで問題ありませんでした。しかし年次が上がるにつれて、「正解」がない課題に直面することが増えてきました。これは職位が上がることで解決すべき課題のレイヤーが変わってきたことによるものです。

しかし、私はこの「正解」が見つけられない場面で苦しみました。大抵の課題には「正解」があると思っているにも関わらず、「正解」が見つけられないからです。「正解を出したい」と思っているのですが、それが見つけられない。そういうときにどうしていいかわからない。「この場における正解を上司や先輩が決めてくれ」と思うこともかなりありました。それに従うから方針を決めてくれと。それがあれば上手く動くから、と。

そう期待して上司や先輩に相談しても彼らも「正解」は持っていません。そして問いかけられる「あなたはどうしたいの?」という言葉。当時はそれを聞くたびに突き放されたような感覚になりました(「突き放された」と感じること自体が甘えの発露なのですが)。

でも自分自身の意見を表明してきた経験もない自分は、まず自分の意見を持つという習慣がなく、仮に「こうかな?」と意見にも届かないようなぼんやりとした感想が浮かんでも、それに自信が持てず恥をかきたくないから言わない、という消極的な姿勢に終始していました。

恥を感じる原因

「正解が出せない」と感じたときに行動が制限されてしまうメカニズムとしては、「恥をかきたくない」という気持ちがありました。そつなくこなす、上手にやる、ということができる自分に一定の価値を感じていたわけですから「間違える」「他人から指摘を受ける」ということを過度に恐れていました。

どうして「恥をかきたくない」という思考になるかという思考回路は、以下の書籍での考え方がしっくりきました。

この中で、恥を感じる種類を2×3で6つに分類しているところがあります。最初の2分類は「外的恥」と「内的恥」です。

恥の要因が自分の外側にあるか、内側にあるかで大きく異なる。「周りからこう見られたい」という理想の自分から外れたときに感じる「外的恥」と、「自分はこうあるべき」という自分の美学から外れたときに感じる「内的恥」だ。

いくつになっても恥をかける人になる 第3章 恥と向き合う6つの視点

私は「正解を出せる自分でいること」に価値を感じていましたから、それができないと思ったときに行動が制限されてしまうわけです。「正解」を出し続けることで周囲から評価されたいという意識が強くあるのに、「正解」がわからないので行動できない。行動してそれが間違っていて評価を落とすぐらいなら行動しない方がましかもしれない、と考えていました。

次の3つの分類はフェーズごとに「初歩期」「研鑽期」「熟練期」と分けたものです。

この大きな2つの恥は、経験の熟練度によって、それぞれ3つのフェーズに分けられる。新しいことを始めるときの「初歩期の恥」。新入社員や部署異動などで、周りに比べて自分だけができないときに出会う恥がこれに当たる。次に、上手になろうともがいているときの「研鑽期の恥」。できることが増える中で、まだ頑張っているところを見られるのが恥ずかしかったり、人に協力をお願いするのが恥ずかしくなったりする。最後に、自分が周りより経験値がたまっているときに感じる「熟練期の恥」だ。わかっていないとは今さら言い出せないこと。後輩への指導や、人前で話す機会が増える中で出会う恥もある。

いくつになっても恥をかける人になる 第3章 恥と向き合う6つの視点

当時の自分でいえば、研鑽期と熟練期とそれぞれの要素があったと思います。一定の経験値はあるし後輩指導もしているが、自分よりも経験豊富なメンバーもたくさんいて、その人たちから見れば自分の意見は間違っていたり足りない部分があったりするかもしれない、もしそうだったときにどう見られるか心配、というものです。

正解思考と恥の関係

思考回路として整理すると、以下の流れかなと思います。

「正解(のようなもの)」を出すことが唯一のゴール
→どの課題についても「正解」を探してしまう(でも正解が無いものも多い)
→「正解」と思えるもの以外(自分の意見含む)には自信が持てない
→自分の意見も間違っているかもしれない
→もし間違っていたら恥ずかしいので表明しない

留学できっかけを掴む

留学で「正解はない」が腹落ち

そんな悩みを抱えているタイミングで留学に行くことになりました。そこで、多様な価値観に触れて「正解」が存在しない問題が多くあることが腹落ちしました。

国際色豊かな同級生に囲まれ、違う国の文化の話などをしていると「違い」がたくさんあることを知れますし、そういう「違うよね」という話題は結構盛り上がるのですが「どちらが優れているか」「何が正解か」という話にはなりません。そういう話になりかけても、価値観(何を重要視するか)が異なるので、人によって「どっちが合う/合わない」というのがあるだけで「どちらが正しい」なんて決められないのです。

そう考えると「完璧な意見」などありません。経験が違えば同じものを見ても違う視点でものを見ます。これは優劣があるからではなく、経験が違うから/視点が違うからです。多様性です。

そして多くの視点で議論を出来たほうが、優秀な人が一人で考えるよりも、質の高いアウトプットにつながる、ということも実感・体感できました。どれだけ優秀な人が一人で考えても、多様な組織に勝てないというのは、留学期間中に読んだ以下の書籍でも語られており、これも「知っていること/頭ではわかっていること」が経験を通じて腹落ちした感覚があります。


もっと自由でいい

少し蛇足かもしれませんが、日本人の同級生含め、自分が思っていたよりも自由に生きている人たちを見て、自分自身ももっと自分の根底にある感情に従っていいんだと思えたことも大きなきっかけでした。私はロサンゼルスに滞在していましたので、大学の講義を休んで大谷翔平を見に行く同級生がいたり、昼からワインを飲んで講義に出たり、そもそも国立公園を回りたいからという理由でロサンゼルスを留学先に選んでいたり、帰国後すぐに転職していたり。

私は生真面目なところがあり、長い期間同じ会社にいるとその会社で良いとされる考え方(=真面目で滅私奉公を是とする)が、自分の価値観であるかのように刷り込まれていました。でもそんなことはなく、もっと自由でいいんだと、そんな窮屈な生き方しなくていいじゃんと、頭ではなく心でわかったように思います。

留学で半強制的に「恥をかく経験」を積む

留学中は「外国人」であり「英語がネイティブレベルではない」私は、大学でも勤務先でも、もっと言えば生活をしているだけでも、「上手くやれない」場面に多く出会わなければいけませんでした。

そんな中でもできる範囲で挑戦をして、失敗をする経験を通じて「恥をかく」ことにも慣れましたし、自分が思っている以上に「恥をかく」経験をしても他の人はあんまり覚えていないものだと体感できました。もし覚えられていても「よくやっていた」「良いチャレンジだった」と言ってくれる人も多く、前向きに捉えてくれているんだなと思いました。

「失敗するかも・恥をかくかもと思ってもチャレンジしたほうが良いよね」というのは知っていても、実際に行動に移しにくいものだと思いますが、留学を通じて、半強制的に「失敗してみる」という経験がたくさんできたことで、これからも「失敗してもいいからやってみよう」と思って挑戦しやすくなった感覚があります。

留学から帰ってきた今の感覚

「正解はない」という感覚が背中を押してくれる

以前は「正解」を探していましたが、それがない(少なくとも誰もわからない)場面も多くあります。その時に必要なのは、まず自分の考えを表明すること、そしてそれをベースに議論をしてブラッシュアップをすること、と今では自然に思えます。

以前は「自分の考えを表明する」ことに対して「間違っていたらどうしよう」と考えてしまっていました。しかし、そもそも自分の視点で考えた意見なのですから、他人から「正解だ/いや間違っている」という評価がなされること自体がおかしく、私の視点から考えられる意見、以外の何物でもありません。(もちろん真剣に検討されていることが前提ですが。)

それをまず表明したうえで、他のメンバーと(=自分とは違う視点を持つメンバーと)議論をしながらより良いものにしていけばいい、という感覚と持つことができています。

失敗してもいいから行動量を増やす

さらに「失敗をしてもいい」という感覚は、自分の検討が100%十分になされたと思えなくても、場合によってはスピード優先で提示することも大事だと思わせてくれます。

もし自分の出すアウトプットに粗があったとしても、たたき台を提示したという価値は間違いなくありますし、他のメンバーが価値ある修正提案をしてくれるなら、チーム全体で見たときにパフォーマンスを高めるという意味で良い空気づくりにもつながる可能性があると思います。

そうした中で、検討が進み、作業内容がブレイクダウンされて、一定の「正解」があるレベルまで細かくなればこちらのものです。元々正解があるものへの対処は得意なのですから、さらに自信を持って進められます。これまで慎重だったからこそ磨けていた自分らしさも、こうして活かすことができると考えています。

矢印を自分から相手に向ける

もう一つ自分の考えを変えるきっかけがありました。

帰国直後に、学生時代からお世話になっている先輩と話した時、「帰国したら『留学帰り』というラベルが貼られてそういう目で周りから見られますよね。いやだなー。」ということをポツリと言いました。

すると「人からどう見られるかを気にしてたら前と変わらないんじゃない?相手から自分に向いている矢印は放っておいて、自分から相手に『何ができるか』『何をしたら喜んでもらえるか』という考え方じゃないと。自分から相手への矢印を意識するイメージで。与えられる側から与える側になるってそういうことじゃないかな」と。

人からどう思われるかばかりを気にしているから自分の行動が制限されたり、やりたくもないことをやってしまったり、ということがあると思います。「恥をかきたくないから」もこれに含まれると思います。

そうやって周囲の評価に踊らされるのではなく、自分起点で動くんだ、ということを強く意識させられる言葉でした。立場に囚われすぎず、親心・Giveの精神を持って取り組んでいく姿勢を大事にしたいと思います。忘れたくないのでここにメモしておきます。

とは言っても

いつこの前向きな気持ちに変化があるかはわかりません。ということで今の前向きな気持ちを覚えていられるように、という思いも込めて言語化をしました。自分の立場が変わればまた考え方も変わるでしょうし、自信が失われる経験をするとまた変化があるかもしれません。その時はその時でまた、アウトプットをしながら思考を整理できればと思います。

もし過去の私と同じような苦しみをしている人がいれば、その苦しみから脱却するヒントになれば幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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