2020/01/17(金)インターネットでやらかさないための3カ条
今日、Twitterを見たところ、自分の趣味に関連するワードがトレンド入りしておりました。なにやら揉め事があったようです。
何が起きたのだろうと思ってみてみると、その揉め事の大元となった事件そのものよりも、ファンらしき人たちの罵りあいがえげつないことになっておりました。いわゆる「アンチと信者の殴りあい」というやつです。
なにやらお若い方たちが、空中リプでお気持ちを表明し、引用リツイートで皮肉嘲笑罵詈雑言を投げつけ、ブロックされたら「こいつブロックして逃亡してやんのwww」と煽りつつ事前に撮っておいたスクショやら魚拓やらを晒し、挙句の果てにはその乱闘騒ぎがまとめブログに掲載され、信者アンチ両陣営がそれをネタにしてさらに殴りあうという……(あ、でもまとめブログに載せられたこと自体は両陣営ともに喜んでいましたね。承認欲求ですなぁ)そんな感じでどったんばんたん大騒ぎしておられました。
「いやはや、まったくもってけしからんですね! 民度が低いよ民度が! 嘆かわしい!」
と、言いたいわけではありません。
なぜなら、彼らの気持ちもわかるから。
若いうちは、とにかく注目されたい。特別な人間だと思われたい。そして、自分自身でもそう思いたい。だから、過激な言動をする。
「危ないヤツ」「やべーやつ」というのは若き野郎どもにとっては最大の賛辞です。ざっと思いつくだけでも、歴史を紐解けば室町時代にはもう「かぶき者」とかいって若い奴らウェイウェイしていたわけです。戦後の米英にはロッカーズだのモッズだのがいて、昭和の日本には暴走族だのツッパリだのがいたわけです。承認欲求の舞台がリアルからネットに広がっただけで、何百年も前から若い野郎どもは同じことをしているのです。ぼくもしていました。
そう、していたのです。
白状いたします。ぼくもまた、承認要求モンスターと化した頭が悪く身の程知らずの若造でありました。
罵りあいこそしなかったものの、いかにしてウケるか、いかにしてバズるかに血道をあげていた若造だったのです。
それゆえ、彼らの気持ちがわかるのです。
彼らはただ単に罵ってあっているわけではなく、罵りたいから罵っているというわけでもないのです。
「過激な罵りを発信しまくっている怖いもの知らずでやべーオレ」を発信することで「あいつはやべー」と一目置かれたいのです。有名になりたいのです。承認されたいのです。何者かになりたいのです。
そう、真の目的は罵ることではないのです。
だから「過激な言動」の中身は実はなんだっていいのです。「過激な言動を行っているオレ」を承認してもらうのが目的なんですから。
こういうことがわかってくると、ネットで暴れまわっている若者たちに対し、なんというか「哀れをもよおす」という気持ちがしみじみと湧いてきます。
あ、バカにしているわけじゃないんですよ。バカにするなんてとんでもない! 彼らがいま歩いている道は、かつてぼくが歩いた道なのですから。若者にはバカをやる権利があるのです。若者がバカをできない世界とかディストピアじゃないですか? そうでしょう?
むしろ、かつてバカな若者であり、今はもう若者ではないぼくからすると、彼らの姿は「もう二度と戻ることのできない遠い日の思い出」を見ているかのようで、胸の締め付けられるような郷愁すら覚えます。
若者にはバカをやる権利があります。
しかし、いつまでもバカのままではいられない。
すべての若者は、いつか大人にならなければいけないのです。
……というわけで、かつて散々バカをやって、もうバカをやれない歳になってしまったぼくがいま心がけている「インターネットでやらかさないための3カ条」がこちらです。
* * *
1:褒めよう。けなす発信ではなく褒める発信を心がけよう。どうしてもけなさなければいけない時は「殺されても文句は言えないからな」というくらいの覚悟を持とう(そもそも「どうしてもけなさなければいけない時」など滅多にないのだが)。
2:笑いをとるなら明るく楽しい笑いをとろう。皮肉、冷笑、嘲笑でウケようとしない。それらは確かにウケやすいが、連発するうちに「そういうもの」を好む人しかよってこなくなり、薬物乱用のように人生を蝕んでいく。
3:リアルで面と向かって言えないようなことはネットでも言わない。画面の向こう側には生身の人間がいることを忘れるな。「どうせ本人には届かないだろう」と思っているのかもしれないが、びっくりするくらいに届いている。そして、後々になって面と向かって会う機会が生じるということもわりとある。本当にある。
* * *
以上です。
「正直言って、大人の処世術というか……つまんないね」
なんて思った方もいるかもしれませんが、それもまた正解です。
この3つを守ると、SNSでのウケが悪くなります。切れ味が落ちます。バズらなくなります。
いうなれば、時速120キロで一般道をぶっ放す暴走族から30キロ制限を遵守する優良ドライバーにジョブチェンジするわけですから、そりゃあもう目立たなくなります、ウケなくなります。
しかし、人はいつまでも暴走族ではいられません。10代の暴走族は絵になりますが、40代・50代の暴走族は目も当てられません。若者だから許されるバカを大人になってもやるわけにはいかないのです。それは本物のバカです。場合によっては塀の中でお過ごしいただくことになります(まぁ、実際には10代の暴走族でもダメなんですが、言葉の綾ということで)。
大人になり、若者だけに許される無茶を許されなくなったあと、そこからいかにして大人なりの面白さ、大人なりのウケ、大人なりの切れ味を再構築していくか。
これはとても難しいことであり、ぼくもまだ全然できていません。悩みと戸惑いと試行錯誤ばかりです。
しかし、先に述べた「3カ条」をふまえた上で、大人なりの「滋味」みたいな面白さが出していけるようになれば、それはきっととても格好のいいことでありましょう。
無茶が許される季節が終わり、無茶ができない歳なったからこそできるもの。そういうものを、自分のものにしたいのです。
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