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みんな、自分が死ぬことを本気で信じてはいない


日曜日の昼時。

我が家のリビングといえば、アッコにおまかせとともに、新型コロナウイルスの話しで持ちきりだ。

ここ最近、週末の家族だんらんにはこの話題がついてまわる。

ふと「もう一週間がたったのか」と思い、そんなに忙しくもない春休みが過ぎる早さに愕然とする。

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目先の報道にひたりつき、なにかを得たいという情念に駆られているひとたちは少なくない。

現代の世相は、まさに「生存」という根源的な欲求をあらわしている。

電車に乗り、車両のなかをぐるっと見回してみると、マスクをしてないぼくがいかにマイノリティなのかがよく分かる。

とは言ったって、ぼくだって自然に呼吸をするし、自然に栄養を吸収し、傷や病から自分で回復していく存在だ。

満足や快だって追求するし、ましてや自分を傷つけたりすることなんて望まない。

だから、ひとは根本的に生きることを望んでいるとみなすのは、それほどおかしくないとも思う。

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今日から明日へ、今年から来年へと生き続けられるかどうかは、なんとなく重要な気がする。

生存について考えることは、他のだれでもないこの「私」が将来に存在することである、というのが自然な考え方だ。

けれども、なぜ自分が生き続けることがそれほどまでに大切なのだろう。

死はどうして、どんなふうに悪いのだろう。

現代社会は、ぼくにこのような問いを投げかけてやまない。

まだ生きていれば享受できていたかもしれない、人生における良いことを、死が奪ってしまうからか。

それとも、生きることそのものになにか本質的な価値があり、死はそれとして悪いのか。

はたまた、死んでしまったら、私と話したり、いっしょに時間を過ごしたり、夕日を眺めたり、笑ったり、悩みごとを打ち明けることもできないように、残された家族や友人、恋人にとって悪いものだから、生き続けなければいけないのか。

もちろん、根拠に対する問いはそこで止まるわけではない。

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「生きる」とか「死ぬ」といった言葉を口にすることはご法度、という風潮がどうも感じられる。

友人からは、「もっと楽に生きたほうがいいよ」と言われる始末だ。

べつに、死んだほうがましとか、人生そのものに価値がないと言ってるわけじゃないし、青年期にありがちな悩みごとだとも思わない。

ただ、いずれ死ぬという事実は、ぼくたちの生き方になにか重大な影響を与える気がする。

それを脇に押しやってあっさり無視する態度は、間違えているとさえ思ってしまう。

けれども、それはまったく正しくないのかもしれない。

「事実だからって、みんなが考えるべきなのか」と主張したくもなる。

だから、生と死について、その事実に直面しながら本当に考える必要があるかどうかを、問わなければいけないだろう。

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そんなことを部屋でひとり考えていたら、また一週間が始まった。

今週末のぼくといえば、アッコにおまかせが流れているテレビを横目に、またこう思う。

「もう一週間がたったのか」