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哲学対話における進行役の役割は進行を妨げること!?

 哲学対話と出会ってから早いことに4月で2年目を迎えようとしています。これまで学校をはじめとして、公民館や企業、カフェなどさまざまな場所で、老若男女問わずさまざまなひとたちと哲学対話をしてきました。それでも、哲学対話そのものについて、考える余地のあることはまだまだたくさんあるように感じます。

・対話が深まるとはどういうことか
・必ずしも発言をしなくてもよいのか
・みんなが出した問いのなかから、どのように1
 つの問いを決めるべきなのか

 これらを問いとして、哲学対話のための哲学対話をしてみても面白いかもしれません。もちろん、このほかにもまだまだあるかと思います。そのなかでも、とくに次のような疑問を耳にすることが少なくありません。

「哲学対話におけるファシリテーター(進行役)の役割とはなにか」

 実際にファシリテーションを経験したことがあるひとならば、一度は悩んだことがあるのではないでしょうか。長らく哲学対話に取り組んでいるひと程、よりわからなくなってしまうものです。わたしたちは、到達すべきファシリテーター像がどのようなものであるのか、またどこにあるのかわからないまま、それを目指さなければいけません。

 そこで、そもそも対話とはなにかについて改めて振り返ってみましょう。

 繰り返しになりますが、対話とは真理を求める会話です。それは、同じテーマについて異なった意見を関連づけていくことであり、ただの意見交換とは異なります。

 じぶんの話したいことだけを話して、他のひとの意見に対して質問や意見を返すことなく、「ふ〜ん、あなたはそういう考え方なんだ」といったように受け流してしまうのならば、それは対話とは呼べないでしょう。お互いになにも関連づけられてないからです。

 しかし、このような事態は、たんに相手への無関心だけから発生するようにはどうも思えません。というのも、議論のスピードがはやいために関連づけがなされず、なんとなく流れてしまうということがしばしばあるからです。

 ここでいう議論のスピードがはやいとは、発言と発言のあいだの沈黙になる時間がほとんどなく、意見が絶えまなく飛び交っているということを意味します。

 ファシリテーターがほとんど関与しないような対話において、このような傾向がみられるような気がします。もちろん、哲学対話についてよく理解をしている参加者が多い場合には、進行役がとりたててなにかの役割をまっとうしなくとも、沈黙の時間はおのずと発生します。

 このように考えると、哲学対話におけるファシリテーターの役割とは、進行を妨げることにあると思います。妨げるとは、決してじゃまをしたり妨害をすることではなく、議論があまりに円滑に進んでしまうのを抑止することです。

 それは、やはり質問を投げかけることによって達成されます。とりわけ、ひとの核心に迫るような問いかけを前にすると、容易に口をひらくことはできず、わたしたちは沈黙せざるを得ない気がします。