見出し画像

通俗的な良さが本当の良さを隠してしまう


「みんなやがて死ぬのだから、もっと一日一日を大切にしよう」
「亡くなった方の分まで、じぶんが今を精一杯生きよう」
「いつなにが起こるかわからないから、大切な人と一緒にいる時間を大切にしよう」


「死」にまつわるこういった世俗的な良い話を、みんなはよく知っているし、既に共有している。

お互いそれに共感し合うことだってできるし、ときに涙を流すことだってできる。

そして、なにか明日への活力のようなものへと変換できてしまうほどだ。

いったいどこでそんなことを学んだのだろうと驚かされる。

***

用意された通俗的な良さが、本当の良さを覆い隠してしまう。

それは、ぼくたちがどのように振る舞うべきかを示してくれているような気分にさせてくれる。

一直線に向かうべき間違えのない方向性があるような、勇ましい精神を持たせてくれる。

重要な死に直面すると、「これを無駄にしないようにじぶんの糧にしよう」と通俗的に直結させることができてしまう。

本当はもっと良いものなのかもしれないのに。


悪さの社会通念だってそうだ。

死は一巻の終わりだとか、まだ生きていればもっと楽しいことが経験できたとか、周りのひとたちを悲しませるから悪いとか。

お決まりの通俗的な悪い話にしてしまう。

そんなことでは語りきることができないくらい、本当はもっともっと悪いことなのかもしれない。

***

ぼくたちが示すべきことは、ただちに、世俗的に正しい道筋をたどるような勇敢な姿勢ではない。

グラグラした足場で本当のところはどうなのかと、模索し続けるための忍耐力。

ぐるぐると同じところに、ああでもないこうでもないと、こだわり続けることができるしつこい態度なんじゃないかと思う。

それは、「悩む技術を習得する」と言い換えてもいいのかもしれない。