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批判のその先にあるもの

 本当の意味での友だちとは、「真実を一緒に探し求めることができるひと」なんじゃないかと思う。

 さきほど、いつもはたわいもない会話しかしないサークルの友人たちと、働くとはなにかというテーマのもとで、真剣に議論をしてきた。面白いことに、「すごいとはなにか」「なぜ死ぬのは怖いのか」といった問いにまで深まりをみせた。

 そのなかで、批判は真理の探求のうちであり、それを避けては本音で話し合えないということに気づいてから、ふとそう思った。

 昔は、互いに批判し合うことを恐れていて、愛とか自由、正義なんてまじめに話し合うのがすこしダサいと思っていた。

 ほとんどのひとはお互いの考えが一致せず、ときに激しく対立するときに、友だちのままではいられないかもしれない、と焦る。

 だから、じぶんが本当に言いたいことを押し殺して、イエスマンになることでつながりを保とうとする。同じ意見を好んで、それぞれのちがいを隠すことで、なんとか関係を保とうとする。それが誠実な態度じゃないことに気づいているのに。

 たしかに、互いに批判なんてし合わなければ、円滑なつながりは維持できると思う。けれど真の友だちというには、それだけではなにかが足りない気がする。

 もちろん、たわいもない日常的なやりとりだって面白いし、有意義であるとも思う。だけどやっぱりなにかが満たされない。

 個性を押し殺すのではなくちがいによってつながっていて、ともに真理を探求するための冒険へと出かけるなかで、批判し合っても怒ったり傷ついたりする必要がないことをともに学び合えるひと。それが本当の意味での友だちだと思う。