【短編小説】かくれんぼ 中編
一時間に一本しか電車が通らないローカル線の踏み切りを越えると、目的のP町だった。都心から四時間かけてたどり着いた町は、ひどくさびれていて、もの淋しかった。
人気のない駅前商店街を抜け、昔ながらの民家が並ぶ細い道を縫うようにして走った。そして何とかそれを抜け、さらに十分ほど走ると、何となく見覚えのある町並みが視界に入ってきた。
山と山に挟まれた町。高速道路は山を削ることなく、この町の上を走るように建設されるようだ。
やがて小学校が見えてきた。何の感慨も湧いてこない。小学校に入学する前にこの町を出たという記憶が正しい証拠だ。
小学校を後にすると、昔ながらの一階建ての小さな公団が見えてきた。誰も住んでいないことは一目でわかる。周囲には膝くらいの高さの雑草がおい茂り、窓にはネットが張られ、木は腐っている。土壁が今にも崩れ落ちてきそうだ。おそらくここも、高速道路の建設に伴って取り壊されるのだろうが、解体屋は楽な仕事になることだろう。
公団の角を曲がり、砂利の道をしばらく走ると、行き止まりだった。いや、右に折れる道がある。わかっていた。あの路地だ。そして路地を進むと長屋に突き当たる。
しばらく車の中から、私は路地の入口付近を眺めていた。逡巡が走る。だが、私はふうっと息を吐き出すと、ドアを勢いよく開け、車を降りた。
約二十年ぶりの故郷に足を下ろす。
「!」
その瞬間、私ははっとして立ち止まっていた。
二十年ぶりだというのに、地図も見ず、誰に道を尋ねることなくここまで来ることができた。このあたりで過ごしたのは六歳までだ。当時はとてもじゃないが、一人で遠くまで行くことはなかった。行ったとしてもあの公団くらいまでだ。それをこうして一度も迷わず来ることができた。田舎の入り組んだ道を一度も迷わず、躊躇せず。
「……」
何かが私を導いたのだろうか。
何か……あの少女か。
私は今にも路地から少女が現れそうで、一歩後退さった。背中が車のドアに当たる。
春だというのに、寒気が背中を走る。
しかし私は自らを奮い立たせた。ここまで来て背は向けられない。
ゆっくり足を踏み出した。
路地の入口に立つ。
だが、そこから先へは進むことができなかった。
恐怖心ではない。確かに寒気は続いていた。そしてそれはトレーナーに身を包んだ肉体に鳥肌を立てていた。
だが、恐怖心よりも強い何かが、私が前へ行くことを許さなかった。
目の前には長屋の一部が見えている。少女の姿はなかった。
だが、脳が、この先へ行ってはいけないと、全身に命令している。
一拍遅れて、私自身も、この路地の奥に行ってはいけないのだという感覚に見舞われた。
それだけでなく、頭の左側の奥深い所に奇妙な感覚が生まれていた。時折、脈打つような感じで、鈍く痛む。
気付けば車に戻っていた。ドアを閉め、ロックする。
ここにいてはいけないような気がした。
相変わらず少女は姿を見せない。だが、そのことが余計に私を不安にさせた。思わず車の後部座席や車のまわりに目をやってしまう。ルームミラーにあたふたする自分の姿が映っていた。
冷静になれと、自分に言い聞かせ、車をバックさせる。公団の角で切り返した。アクセルを踏む足が震え、二度、三度空踏みしてしまう。
ようやくアクセルに載った足に力を入れ、私は逃げるように生まれ育った場所から走り去った。
バックミラーの中で故郷が遠ざかるにつれ、頭の中の奇妙な感覚が姿を消していった。
それに取って代わるように、私の心には、焦燥感のようなものが広がり始めていた。もっと速く走れ、もっと早くこの町から離れろという警告なのだろうか。
同時に、二十年前、私たち一家が逃げ出すようにこの町から引っ越していった記憶が蘇ってくる。
一体何があったのだ。
両親に聞こうにも、二人共、すでに他界している。
だが、あの路地で、あの長屋で何かがあったことは確かだ。
少女の姿こそなかったが、こうしてあの路地から逃げ出すのは、夢と同じだなと、自分を嘲笑った。
かといって、引き返すこともできず、私はただ車を走らせた。とにかく一刻も早くこの町から離れたかった。
差し障りのない報告をした。やはりゴルフ場か、今はやりのアウトドア体験広場くらいしかないんじゃないかと言うと、社長は満足そうに頷いた。
私は往復八時間のドライブに疲れていたため、残業する事務員を尻目に会社を出た。
週末の街角は人で溢れていた。その様を見ると、対極として故郷が思い出された。
だが、私には全くと言っていいほど、故郷の思い出がなかった。六歳までしかいなかったということもあるだろうが、それにしてはあまりに極端すぎる気がする。
それに夢に出てくる少女の存在。そして、路地から私を遠ざけた何か。頭の深い所の奇妙な痛み。そして今も残る焦燥感。
わからなかった。
混乱していた。
自宅へ戻ってからも、私は考え続けた。必死で幼い頃の記憶を呼び戻そうとした。だが、無駄な努力だった。
ふと思いつき、押入れの奥を掻き回す。たった二冊のアルバムはすぐに見つかった。そこから何か手がかりが得られるかもしれないと思ったのだ。生まれてから中学校を出る頃までのものだ。両親が写真好きで、こうしてアルバムに整理してくれた。
その両親が死んでからの写真、すなわち私が高校へ入ってからのものは、アルバムに整理されず、お菓子の箱の中に無造作に放り込まれていた。写真の数も極端に少ない。
だが、目的の写真は私があの町にいた時のものだ。もちろんアルバムに貼ってある。そして数も豊富だ。
アルバムを開き、順に写真を見ていく。
目的の写真、たった六年間の写真を全て見終わるのに、一時間あまり時間を費やした。もう日付が変わっていた。自分の過去を思い出していたというより、他人の記録を自分の脳にインプットするような作業に似ていた。
ただ、やはり、父や母の写真を見ると、素直に懐かしさがこみ上げてきた。貧乏だったが、温かい家族だったという記憶がある。
写真は、ほとんどがどこかの公園や出先らしき場所でのもので、あの路地や長屋でのものは一枚もなかった。
考えてみれば、自分の家の前で写真を撮ることは、あまりないものだ。
あの少女の写真も一枚もなかった。
では一体、彼女は誰なのだろうか。
元々存在しないのか。
それなら何故私の夢に現れ、手招きするのか。それも私の生まれ育った場所というリアルな場所で。
それから、今も胸に広がる、焦燥感の正体が知りたかった。あの町から出る時に感じたものより強くなっている。
あの時は、一刻も早く町から離れろという、自分自身の心の焦りが生んだ感覚だと思っていた。だが、どうやら違うようだ。あの町から遠く離れたこの場所でも焦燥感は強く胸を占めている。
だが、いくら考えても答など出るわけがなかった。それに考えれば考えるほど、あの夢が私を誘うかのように、猛烈な眠気が襲ってきた。
抗えなかった。
その日からまた夢を見るようになった。全く同じ夢。
故郷。路地。長屋。少女。
昼間は仕事が忙しく、何とか気を紛らわせることができた。だが、一人きりの部屋に帰り、夜も深まってくると、嫌でも思い出した。眠る前から体が自然と夢を見る準備を始めるようにさえなっていた。
今日は眠らないでおこうと自分に言い聞かせても、昼間の仕事で疲労した体はそれを許してはくれなかった。
そして当然のことのように、眠りに落ちると、あの夢と対面することになるのだった。
しかし、もう慣れたもので、夢を見ても、以前のように恐怖を感じたり、夢から覚めたあとしばらく動けないというようなことはなかった。
ただ、その代わりに、胸を掻きむしりたくなるような焦燥感が襲ってくるのだった。
私は、顔のない少女よりも、その焦燥感が気になっていた。そしてやがて、日中、仕事をしていても、夢の中の出来事や焦燥感が心を捉えるようになり、業務に支障をきたすようになっていった。
私は決断した。
もう一度、あの町へ行くことを。
私は社長に休暇を申し出た。忙しい折ではあるが、社長は快諾してくれた。最近の私の態度や行動に、普段とは違う、少しおかしなものを感じていたのだろう。
「リフレッシュして、ストレスを解消してこい」
そう言ってくれた。
久しぶりに夢は見なかった。だがぐっすり眠ることもできなかった。焦燥感がずっと胸に宿っていて、それが眠りを妨げたのだ。それは、夜中じゅう、何度も私を揺り起こすような動きをし、私の目を覚まさせ、結局いつもより早く起きだす羽目になってしまった。
まだ薄暗い空の下、無理を言って借りた社用車に乗り込む。焦燥感に煽られるように、アクセルを踏んだ。敢えて何も考えずに走った。運転に集中した。
考えても答など出ない。あの町へ行かなければ何もわからない、そう自分に言い聞かせ、走った。
四時間足らずで故郷の町に入る。そして前回同様、何かに誘われるように、あの路地に向けて車を走らせた。
どんどん目的地が近付いてくる。だが、それにつれ、頭の奥底に、奇妙な痛みのような重みが生まれつつあるのを感じていた。前回、あの路地を訪れた時に感じたものと同じ痛み。
思わず身構える。体全体を防衛本能が包み始めていた。
だが、頭の痛みはどんどんひどくなっていく。それにつられるように、あの路地から逃げ出した苦い記憶が蘇ってきた。
また、気持ちが萎えそうになる。思わずアクセルを緩めていた。
と、その時、前から大型トラックがやって来るのが見えた。私は狭い道路の端へ向かってハンドルを切り、小学校の塀ぎりぎりに車を寄せた。トラックが通り過ぎるのを待つ。
トラックは引越しセンターのものだった。そのトラックの後ろには、家族三人が乗った軽自動車が続いている。一家で越していくのだろう。高速道路建設で立ち退きになったのか。後部座席の小学生らしき男の子が、来た道を振り返っている。
私は止めた車から、その少年を目で追った。
キャップのつばで隠れてはいるが、今まで住んでいた家の方を見つめているであろうその目は、多分真っ赤に腫れているはずだ。それが証拠に、頬を涙が滝のように流れ落ちていたからだ。
「!」
その涙を見た瞬間、不意に二十年前の光景が蘇ってきた。
まるで、失くしたことさえ忘れていた物が、突然出てきた時のように、完全に忘れていたあの日の記憶が蘇ってきた。
二十年前にこの町を去った時、私は今見た少年と同じように、父の運転する車の中から何度も後ろを振り返り、泣いていた。同じように贔屓のプロ野球チームのキャップをかぶり、そのつばで両目を隠すようにし、泣いていた。
そのシーンが鮮明に蘇ってきた。
トラックと少年を乗せた車が遠ざかる。
私は車を発進させた。あの日の記憶を辿るように、あの路地に向け、車を走らせた。
だが、泣きながらこの町を去ったこと以外、何も思い出せなかった。
記憶の底では、何かが呼吸をしているのだが、また別の何かがそれを抑えこもうとしているかのように、記憶自体が圧迫され、何も思い出せないでいた。
公団の角を曲がり、路地が見えてきても、やはり、記憶に変化はなかった。
何かを思い出そうとすればするほど、頭の痛みがひどくなった。
車を降りる。
足が地についていないような感覚。微かに眩暈を覚えた。
頭の痛みも断続的に襲ってくる。
だが、私は行かずにはいられない心境になっていた。
全てはこの路地にある。路地の奥の長屋にある。
泣きながらこの町から去ったのは事実だ。記憶の中、その事実は生きている。その泣いていた理由が、生まれ育った町から離れるのがつらかったからだけではないことは、もうわかりすぎるほどわかっていた。
何かがあったはずだ。
何か……。
夢に出てくるあの顔のない少女
路地の奥へ行くことを止めようとする何か
頭の痛み
焦燥感
それら全ての答が、この路地に、そしてその奥の長屋にある。
私はこわばりつつある全身の筋肉を、脳からの命令に背き、無理に動かした。
路地に向かう。
トレーナーの下の皮膚に鳥肌が立つのがわかった。寒気がするのに汗が出た。脂汗だ。額を伝う。頭の痛みが一層ひどくなった。
構わず歩いた。
幅一メートルあまりの路地。左を工場の塀、右を工員たちの詰所の壁に挟まれた路地は、昼間だというのに薄暗く、洞窟に入っていくような錯覚に陥った。
ゆっくり進む。
左右の塀の高さに、私の身長が追いついていた。しかし、気味悪いくらいの薄暗さは、微かな記憶が、昔のままだと告げていた。
あっという間に行き当たる。行く手を遮るように長屋が目の前に広がっていた。
少し懐かしさを感じたが、それは昔を思い出してのことではなく、今では珍しくなった、昔ながらの建物に対してだ。
長屋を見ても、何も蘇ってはこなかった。頭の痛みが増しただけだ。
あたりを見回す。
あの少女の姿はなかった。
私は目の前に並んだ五つの玄関ドアを順に見た。
私たち一家は、確か一番右端に住んでいたはずだ。私はそこを目指し、歩き始めた。日当たりが悪いため、数日前の雨を吸った土がまだ柔らかく、所々泥のようになっていた。日当たりの悪さ、そして土の状態は昔のままだった。少し当時の様子が脳裏に蘇ってくる。
私たちが越してからも、何組かの家族が住んだのだろう、最近のアニメキャラクターの小さなぬいぐるみが、ポストの上に置き去りにされていた。
そう言えば私もここに住んでいた頃、玄関ドアにテレビヒーローのシールを貼っていた記憶がある。
そう思ってドアに目をやると、それは木製からスチール製に変わっていた。
その事実が、昔の記憶の世界へ入りかけていた私を現実に引き戻した。
それと同時に、背後に人の気配を感じた。