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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その10

 ぼくの影がぼくから離れていくような気分で目を開けると、ナッスィングがぼくの肩を優しくゆすっていました。
「朝よ」
 しかし受付室に日の光は届かなかったので朝の感じがせず、どちらかというとまだ夢のなかにいるような気がしました。
「朝食ができたから食べましょう」
「そう。ありがとう」
「もうじき先生がいらっしゃるわ」
 夢を思い出すような心地で昨夜のことが思い出され、
「ここで働くの許してもらえるかな」
「きっと大丈夫。まずはこれを着て」
 それは真っ白の男性用ナース服でした。なんだかあまりに白く、目の錯覚でしょうか、着替えてみると自分の皮膚が一回り黒くなったような気がしました。
「なにをつくってくれたの?」
「あなたの好みに合いそうなもの」
 と(表情はわかりませんが)恥ずかしそうに笑っているような雰囲気でナッスィングは言いました。
「目玉焼きかな?」
「そんなグロテスクなものじゃないわ」
「じゃあなに?」
「記憶にございません」
「忘れたの?」
「いやね、料理の名前よ。ほかには、『死にたいなんて贅沢だ』、『努力は裏切らない』、隠し味は『老老介護』と『熟年離婚』、デザートは『中高生の正義感』よ」
「なんだか食欲がなくなってきたな。それに憂鬱な気分になってきた」
「そう? あっちの世界の食べ物が合っていないのかしら?」
「そうかもしれない」
 ナッスィングは(表情はわかりませんが)なんだかうれしそうに、
「じゃあ開院の準備をするからここで休んでて」

 受付の窓口からてきぱきと動き回るナッスィングを感心しながら見ていましたが、退屈になったので本でも読もうかと『ああ無情』を手にとりページをめくってみたところ、中には文字ひとつなく、白紙のページが永遠と続いています。ほかの本を開いてみても、どれも同じように白紙です。
「ああ、それ?」
 小窓のガラスを拭いていたナッスィングは言いました。
「逃げちゃったのよ」
「誰が?」
「文字が」
「まさか」
「わたしも最初は驚いて本屋さんに訊いたんだけど、文字は生き物なんですって。ずっと読まれずにいたら別の読者を求めて逃げちゃうの」
「それって本屋に騙されているんじゃ……」
「いいのよ」とナッスィングはほうきを持って玄関先に向かいながら、「どのみち読まないのだから。もし逃げた文字が別の読者に読んでもらえて満足するならいいじゃない」
 ぼくはこんなふうに言う彼女を魅力的だと思い、初めてこの旅を肯定してもいいような気がしました。
「あ、先生がいらしたわ」
 言われるままに受付室を出、玄関で一緒に立って医者のやってくるのを待っていると、なにかがやってきました。それは言葉では説明できないなにかでした。大きいようでもあり小さいようでもあり、黒くもあり白くもあり、濁っていながら透明でもあり、いるようでいないような感じで、言葉の外にいる、次元の異なるつかみどころのない、なんとも言えないもの、いえ、ものとも言えないなにかでした。

「おはようございます、院長先生」
 それはぼくたちの前で止まると、
「/,2う(=I&Y%)I)&%?わも>?え_+>>+」
「はい、今日もよろしくお願いします」
「!#$#“F)M<>/¥]
「今日配属されたナースの研修生です」
「¥¥¥;:@+*‘|~~′&$%・!=~|)」
 するとナッスィングがぼくに
「なにしてるの。お辞儀して」
 見知らぬ国にやってきた旅行者が現地の人のまねをするみたいにナッスィングと並んで頭を下げていましたが、やがてなにかが行ってしまったような気がしていると、
「よかった。先生まだあなたが見えたみたい」
「なにかが聞こえたような聞こえなかったような、宙ぶらりんの夢のなかにいるような気分だよ」
「先生はね、*《@^=[$#3❘/になりかけているの」
「え、なに? なにになりかけているって?」
「&&「」≪;+:*::“!|¥@>」
「困ったな。きみがなにを言っているのかもわからなくなってきた」
「あっちの耳で聞いてもわからないわよ」
「じゃあどうすれば……」
「見るように聞いてごらんなさい。もう一度言うから、耳をふさいでよく見て。いい、先生は?・≒〈/¥!△なのよ」
「えっと、クエスチョン中黒ニアイコールヤマカッコスラッシュ……」
「うん、いい線いってる。この世界の仕組みが見えてきたようね」
「でも意味を理解できないよ」
「慣れてきたらわかるわ。先生はまだここで揺らいでいるから、集中すればきっと聞こえる。聞こえないときはね、耳をふさいでよく見ること」
 そのとき、受付室の電話が鳴りました。ナッスィングはすばやく受話器を取り、
「ええ、はい。わかりました。すぐに伺います」
 受話器を置くとぼくに向き直り、
「先生が来てほしいって」
「ぼくも?」
「ふたりともですって。なにかしら……」
 院長室はロビーの明かりがなんとか届くところにあり、扉の半分は闇に染まっています。それより奥はもうなにも見えません。
「失礼します」
 と院長室に入ると、窓からは光が差し込み部屋はとても明るいのでした。そのせいでしょうか、医者の形がさきほどよりも明確で、そこにはだれかがいて、しかも微笑んでいるようだということまで感じられました。
「やあ、わざわざすまないね。クランケが来る前にと思って」
 医者の言ったことが聞こえた(読めた)のは、耳をふさいでじっと凝視していたためだと思います。
「どのようなご用件でしょうか、院長先生」
「思ったのだがね、君の隣の研修生だが、彼もナースだったね」
 ナッスィングは不安げな顔で(といっても依然影のように真っ黒なので、そんな風に思われただけですが)ぼくを見ました。
「ということはナースがふたりいることになる。となるときみを呼んだときにどちらが呼ばれたのかわからないし、わたしもどちらを呼んだのかわからない。それは困ったことだ。だからナースはひとりで……」
「先生、それなら彼を別の名前で呼んだらどうでしょうか」
「しかし彼はナースだろう?」
「ナースと言ってもまだ研修生ですから」
「うーむ、それなら、どうだ、カボチャと呼ぼうじゃないか」
 ぼくは思わずナッスィングを見ましたが、彼女は一瞥を送るとわずかに首を振るだけです。
「それとも男性ナースだから、そう、カボチャ野郎にしようか。うむ、それがいい。きみはカボチャ野郎だ」
「違います」
 とぼくはつい反対してしまいました。
 すると急に医者は色を失って、どんどん透明になり、いるのかいないのかわからなくなっていきました。するとナッスィングはすこし慌てて、
「院長先生、申し訳ございません。実は、彼はわたしのいい人、パンプキンなのです。ですからかぼちゃではなくパンプキンであると主張しているわけなのです」
 するとなにかは再び収斂していき、人影のようになると、
「△%((#~*」
 ナッスィングが夜空のように暗く悲しい顔でぼくを見つめるので、なんと言われたのかわかりませんでしたが、
「はい、そうです」
 と答えました。すると医者はふいに見えてきた白衣の襟を正して
「そうか、わかった。では仕事に戻りたまえ」

 受付に向かう通路でナッスィングが怒ったような声で言いました。
「もうどうなるかと思ったわ。先生はとても繊細な人なんだから。否定しちゃ絶対にいけない」
「だってカボチャ野郎はひどいじゃないか」
 するとナッスィングは笑い、そして突然歌いだしました。

 わたしはナッスィング
 いないけどいるのは名前があるから

 あなたはパンプキン
 わたしの愛しい人だから
 やっぱりあなたはここにいる
 だって名前があるのだから

 あっちでもそっちでも
 過去でも未来でもない
 いまここにいる
 名前があるからここにいる

 ナッスィングはぼくの胸に身体を預け、ぼくは彼女を抱きしめました。そして唇があるだろう辺りに見当をつけ、唇を重ねるようなしぐさをしてみました。感触はないけれど確かに唇を重ねたのだという気がしたのは、ナッスィングはナッスィングという名前だからだと思うのでした。

(続く)

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