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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その12

 青い制帽をかぶった白ハトは木々を巧みにかわしながら森のなかを飛んでいきます。背の高い鬱蒼とした木々はどこまでも続き、森の小径は依然薄暗いのですが、木々の間からは(風景描写によって登場人物の心理を描く小説テクニックのように)青空が垣間見えます。
 ようやく少し視界が開けたところに出ると、眼前には小さな池と赤いペンキ塗りの小屋があり、ハトは小屋の郵便受けに手紙を入れているところでした。
 池と小屋を見た刹那どきりとしたのは、この景色をどこかで見たことがあったからです。そして記憶をたどると、それが見た記憶ではなく読んだ記憶であることに思い至りました。
 つまりこういうことです。人生に迷った学生時代(もっともいまだに迷い続けているのですが)、ぼくは哲学に救いを見出そうと、入門書として『ソフィーの世界』を手にしました。小説の最初のほうで哲学者の住処として池と赤い小屋が出てくるのですが、そのあたりまでを中学時代、高校時代、大学時代と三回読んでいたため、池と小屋のイメージが鮮明に残っていたようなのです。
 もっとも、三回読んだというのは愛読書だったからではなくて、その反対にいつもこのあたりで挫折しては最初から読み直していたからであって、結局赤い小屋から先へは進めなかったので、仮にこの世界が『ソフィーの世界』であったとしても、この先どういう展開が待っているのか知る由もありませんでした。

 そんなわけで、知り合いに瓜二つの赤の他人に遭ったかのような気持ちで恐る恐る小屋を観察すると、開かれた窓に三毛ネコが見えました。
 ネコはそこから見えないネコジャラシで遊んでいるかのような、見方によっては白ハトを招き寄せているかのような仕草をしていたかと思ったら、白ハトはふいに郵便受けから飛び立ちネコの元に舞い降りてしまったので、ぼくは小屋の薄気味悪さも忘れ慌てて駆けつけ、一匹と一羽のあいだに割って入りました。
 すると三毛ネコは目を細めて、
「あなたも講義を受けにきたのですか?」
 ぼくがなにも答えないうちに、
「さあさ、お入りなさい。まだスペースはありますよ」
 家の内部に目をやると、三毛ネコのほかにもシカやタヌキなどたくさんの動物がいて、寝転んだり壁に寄りかかったり木のベンチの上で丸まったりと、思い思いの格好でくつろいでいます。家は家具や調度のろくにない武骨なログハウスで、曖昧な記憶のようにひどく殺風景でした。
 白ハトはぼくをよそに空いているイスの背に飛び乗ってしまったので、しかたなく(ドアがどこにもないので)窓枠から体を乗り上げて入りました。
 足元にいたカメが首をゆっくりと伸ばして見上げていましたが、他の動物たちは人間をちっとも気にしていないようなので、そもそもぼくはまだ人間なのだろうかと哲学的に考えてみようとする間もなく、
「ささ、こっちへいらっしゃい」
 三毛ネコはぼくとハトをテーブルに招き寄せ、イスを勧めてから自分も残った一つに座り、
「いま先生はマーキングに行っています。じきに戻ってきますよ」
「マーキング? ああ、お手洗いですか」
 マーキングと言うからには四つ足動物かと思っていましたが、しばらくもしないうちに奥の暗闇から、背丈優に二メートルは越えている大きな人物が現れました。ぎこちない足運びで、そしてなによりも全身真っ白です。着ているたった一枚のゆったりしたローブから、髪の毛も肌も唇までも、すべてが白く、ゆいいつ瞳だけが黒いのでした。
 大男は大きな丸太に腰掛けると、
「尿とは思考停止の産物なのだよ、シカくん」
 と、乾いた中身のない声で、自分の目の前で横になっているシカに語りかけます。

写真はイメージです。photo by tomio


「なぜわたしは今、尿を排泄したのか。茶を飲んだからだ。どうせ出てしまうのに、我々は習慣という思考停止の元で茶を飲みパンを食べる」
「でも先生、食べなければ死んでしまいます」
 そう言ったのは隣のイスのタヌキでした。
「食べても死ぬだろう?」
「それはそうですが、食べれば長生きできます」
「そうかな? これをごらん」
 大男が動物たちに示したのは一冊の本でした。その本の表紙には、ハロウィンのカボチャお化けのイラストとともに『パンプキン・パイの不思議な冒険』と書かれてあり、妙な気分になりました。
「本はなにも飲まないし食べない。しかし本のなかには千年、二千年と生き続けているものもあるのだよ」
「二千年……」
 周囲がざわめきました。
「しかもそのなかの登場人物たちは、老いることもなく、本が死なない限り生き続ける」
「飲み食いせずに?」
「飲み食いせずに」
 すると周囲は動物たちの感嘆の声に包まれました。
「あの大男は誰ですか?」
 三毛ネコにそっと訊いてみると、ネコは目を細めて、
「哲学者の偉大な先生ですよ」
 大男は胡散臭い話を続けます。
「大切なことは、なにもかもを疑ってみることだ。そうするとひとつの真実が見えてくる。つまり、『コギト・エルゴ・スム』」
「なんですか、その悪魔の召喚呪文のような言葉は?」
 とウサギが手を上げて尋ねると、大男はよく響く声で笑いました。
「一見謎めいた言葉でけむに巻く哲学者と自称する輩には気をつけなくてはいけない。彼らは誰でも知っているなんでもないことを難解な言葉や言い回しや外国語で語り、なにやらすごいことを言っているぞと思わせ、その実表層を飾っているに過ぎないのだよ。いいかね、この言葉は」
 と大男は、黒板に白チョークで日本語を書きました。
「こう読むのが正しい。『狐疑と得る後、済む』。どうだね、漢字と平仮名にすることで断然わかりやすくなったろう」
 周囲にざわめきが起こりました。
「片仮名を用いることで一見舶来品的ラグジュアリーな表象を呈するが、古代中国から伝わった漢字は表意文字であり、そのもとは象形文字、さらに遡及すればピクトグラムであり、一グラムの三つ巴が三グラムで三デシリットルだからまず疑ってみることが大切だ」
「先生はなにやらすごいことを言っているぞ」
 とカピバラが呟き周囲が感嘆の声に包まれると、哲学者は今度はタヌキに語りかけるように顔を近づけ、

写真は写真はイメージです。photo by tomio


「賢者と自称する人々には気をつけなさい。彼らは決して賢者ではない。なぜなら彼らはそう言うことによって自分が愚かであることを否定しているからだ。その点わたしは自分が愚かだと認めている。そして自分が愚かだと認めている者はそれだけ賢いのだ。つまりわたしこそが賢者である」
 方々から溜息が洩れるなか、哲学者はさらに続けます。
「この世のありとあらゆるものは結局あるひとつのものから生じている。たとえばわたしのこの髪の毛も、この腕も、この服も、そしてきみの」とヤギの頭を撫で、「この角も、この鼻も、この目も、すべては元をたどるとある物質に行きつくのだ。それがなにかわかるかね?」
「火と水だと思う」
 とイノシシの背に肘をついている子ギツネが言いました。
「なるほど。二律背反というわけだ」
「先生、それは?」
「知りたいのかね。背を反らすと風景が逆さに見えるね。だから上下さかさまの世界が二つ律するというわけだ」
 哲学者は首を傾げる子ギツネに顔を近づけて何度も頷きます。そうしているうちに子ギツネも頷きだすのでした。
「ほかにはどうかな?」
「山火事のあと木は灰になってしまうし、俺たちは死ぬとだんだん土とおんなじようになるから、俺は土がすべての源だと思う」
 そう言ったのは天井にぶら下がっていたテナガザルでした。
「とてもいいところに目をつけたね」
「わたしは」とぼくの向かいの黒ネコが考え深げに言いました。「すべての元になるものはわたしたちの目では見ることができない非常に小さなものだと思います。火も水も土もそれからできていると思います」

写真はイメージです。photo by tomio


「素晴らしい考えだ。正しいかどうかに関わらず、考えるということはとても大切なことなのだよ。そしてきみたちの案はどれも昔の哲学者たちが考えてきたことと同じだ。特に黒ネコくんの考えは現代では一番信じられているものにあたる」
「正解ですか?」
 と黒ネコは得意そうに聞きました。
「残念だが不正解だ。実は、真実に気づいているものはまだわたししかいないのだよ。いいかね、よく聞くんだ。世界を構成するすべての元となるもの、それはつまり石膏だ」
「セッコウ?」
 と動物たちは口をそろえて聞き返しました。
「そう。石膏。これがすべてでこれ以上でもこれ以下でもない」
 動物たちはお互いを見つめあい、首を傾げたり頷いたりしています。隣に座る三毛ネコも独り言のように、
「なるほど。盲点だった。言われてみれば確かに石膏だ。さすが先生だ」
「なぜわたしがこれを発見したかというとね」
 哲学者は今度はぼくを凝視しました。真っ白い顔に目だけが黒く、ぼくは寒気を覚えました。
「ある朝のことだった。起きて歯を磨こうと鏡に映る自分の顔をぼんやり見ていたとき、なぜ自分はこれほど白いのかと疑問が湧き、突如霊感に襲われたのだ。狐疑と得る後、一瞬で済んだのだよ」
 哲学者はそう言いながらもさらに顔を近づけ目を大きくしていくので、気味の悪いことこのうえありません。すると突然哲学者は叫びました。
「お父さん!」
 黒ネコは飛び上がってイスから落ちてしまい、キツネの子供は電光石火で部屋を駆けまわり、コアラは自分の世界に引きこもり、サルは天井から落ちて、寝ぼけ眼のイノシシは飛び起き壁に体当たりします。

写真はイメージです。photo by tomio


 しかし哲学者は気にもとめずにぼくに近寄ると、
「お父さん、わたしです。わかりませんか?」
 ぼくは声も出ず、ただ首を振りました。
「ああ、お父さんはずいぶん変わってしまわれたなあ。だってあのころのお父さんはまだ期待と希望にあふれた顔をされていたものなあ」
 ひとつ咳ばらいをして、声が出ることを確かめました。
「人違いです。あなたのような白い巨人を授かった覚えはありません」
「中学校の美術室を覚えておられませんか? お父さんはよくひとりでやってきて、ビーナスの裸像を見つめていましたね」
「そんな覚えはないな……」
「美術室に鍵をかけて撫でまわしていたでしょう?」
「そんなことしておりませんよ! 人聞きの悪い」
「では、哲学者たちの胸像も覚えておられませんか?」
「まるで記憶にございません」
「ある胸像の両目に絵の具で黒目を塗ったことも覚えていらっしゃらないのですか?」
 ぼくは少し考えてから思わず「あっ!」と叫んでしまいました。たしか清掃時間に、石膏の胸像――古代ギリシャの哲学者だったと思いますが――の白い瞳に黒目を描くといういたずらをしたことがあったのです。
「でもそんな画竜点睛みたいな話……」
「そうなのです、画料によって転生したのがわたしなのです」
「そんな中国の故事のようなことが……」
「いえわたしは中国生まれでも孤児でもありません」
「じゃあきみは?」
「わたしはプラトンの弟子の偉大な哲学者、アリストクラス」
「アリスと暮らすの? ここで?」
「いえ、アリスとテトリス……」
「楽しい暮らしみたいだね」  
「アリスと……チュロス」
「シナモンの匂いが好き」
「アスリト……」
「アスリート? きみが? アリスが?」
 哲学者は呆然とぼくを見つめ、ぼくも真っ白な顔を茫然と見つめ返しましたが、気味が悪かったので気を取り直して、
「中学校ではなんて呼ばれてたの?」
「デッサンと呼ばれていました」
「ああ、デッサンさんですか。よいお名前ですね」
 ぼくらはお互いにほっとして笑いあい、それから哲学者は訊ねるのでした。
「わたしに会いに来てくれたのですか?」
 否定したくなかったので話題を変え、
「人探しをしているんだ。ピティ・パイという人を知らないかい?」
デッサンは首を振ると周囲を見渡し、
「誰か知っているかね?」
 しかし動物たちも首を振ります。
 そのとき、白ハトは制帽をかぶりなおして窓の桟に立つと、ぼくを催促するように「ホーホー」と鳴きました。
「お父さん、あの白く美しい鳥は?」
「ぼくは行かなきゃいけない。ハトを追っていけば彼女に会えるはずだから」
「わたしも連れて行ってください。いえ、白いハトに一目ぼれしたわけではありません。わたしはいままでなにも親孝行をしてこなかったのだからなにか役に立ちたいのです」
「先生、なにをおっしゃるのです。先生がいなければぼくたちはどうなるのですか」
 ネコが叫ぶとほかの動物たちもそれに和し、悲鳴のような喧騒が広がります。ぼくは言いました。
「親孝行なんて考えなくていいよ。むしろ親としてこの世に不幸をひとつ生み出してしまったことが申し訳ないのだから」
「ああ、やっぱりお父さんは深いような浅いような物言いをなさるなあ。だからこそわたしは一緒に行きたいのです」
「でも動物たちは?」
「みんな」とデッサンは動物たちを振り返り、「わたしはすでに教えることはすべて教えた。きみたちはルサンチマンを克服してスーパーマンになったのだよ」
「では猟銃の弾も跳ね返せますか?」
「ああ、跳ね返せるとも」
「それならば先生いずともぼくらはがんばります。さようなら先生」

(続く)

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