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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その9

 森のなかの暗闇をやみくもに走り続けていたところ、突然建物らしきものが現れました。なんだかそれは不思議な現れ方で、木漏れ日に照らされたとたん、姿を現したというような唐突な現れ方でした。
 それは灰色のコンクリートでできた、ひどく殺風景な四角い造りで、五階建ての窓々には黒い鉄格子がはまり、その窓はどれも暗く人の気配はありません。
 閉鎖された隔離病棟みたいだと少しぞっとしましたが、回り込んで正面まで来ると、両開きのガラス扉は大きく開かれ、その奥に見える受診待ち用のソファベンチを天井の蛍光灯が明るく照らしていました。
 人のいる気配に計り知れない安堵を覚え、『ありなし病院』という立て看板にちらりと目をやってからガラス扉を通り抜け、建物に入りました。

 縦横に並ぶソファベンチのどれにも人は座っておらず、また明るいのはこのロビーだけで、左右の通路を見れば電灯もなく暗闇しか見えませんでした。
 まだ開院前なのかと思いながらきょろきょろしていると、ふいに、
「どうされましたか?」
 真正面にあるのになぜか気づかなかったそこは受付で、小窓に白衣の人の影が見えます。
「すみません、病気というわけでは……なくはないのですが、だれかいないかと入ってしまったのです」
「わかります。ここはとても寂しいところですからね」
 受付の小窓は小さいうえに人が座ったときの高さにあったので、白いナース帽のしたの顔は影となって判然としませんでした。
「ほんとうに静かですね。患者さんはいないのですか?」
「ときどきあなたのように現れてもすぐにいなくなってしまいます。いつもはわたしと院長先生の二人だけなんです」
「それはナースさんも寂しいことでしょうね」
「ええ、ときどきは……」
 女性ははにかんだように言うと、受付の小窓から影のような手のひらを出しました。
「なんですか?」
「保険証を」
「ああ、そうですね」
 ところがぼくは保険証を出す代わりに(そもそも持っていませんが)、彼女の手のひらに自分の手のひらを重ねてしまいました。すると彼女も強く握り返してきました。それはまるで寂しいという磁力で引き合っているかのようでした。
「だめですよ、こんなこと」
「どうして?」
「だって、あなたには決まった人がいるんでしょう?」
 そう言われて思い当たるような当たらないような気持でぐるぐる考えてから、
「ピティ・パイのこと?」
「ま、デリカシーのない人」
 と彼女は怒った声で言うと手を引っ込めようとしたのでぼくは強く握りしめ、
「目が覚めるまでここに置かせてもらえないかな? 雑用でもなんでもするよ。もう奇妙な放浪はごめんなんだ」
 すると彼女は動きを止め、
「つまり目が覚めなければずっとここにいるってこと?」
「まあ、そういうことになるのかな」
「寂しいところよ」
「ナースさんがいれば寂しくないよ」
「口がお上手ね。でもわたしはナースというよりナッスィング。だれかであってだれでもない」
   またかと内心ややうんざりしながらも、
「どういう意味?」
 と決まり文句のようになってしまったフレーズを繰り返しました。するとナースは歌うように、
「わたしはかつて患者でした。でもナースさんがいなくなったからナースになりました。事務員さんもいなくなったから事務員になりました。料理係もいなくなったから料理係に、掃除係もいなくなったから掃除係になりました。そしてもし院長先生がいなくなれば院長先生になるでしょう」
 そして実際に、静かな声で歌いだしました。どうもこの世界の人々は歌うことが好きなようです。

  わたしはだれかであってだれでもない
  ナースではなくナッスィング
  ここはあっちとそっちの
  はざまでゆらいでいる病院
  科学者はそこを真空と言い
  僧侶は色即是空と言うみたい
  プラスとマイナス
  重なるところはナッスィング
  あいだでゆらぐわたしはだあれ
  ナースというよりナッスィング
  だれかであってだれでもない

 ぼくは歌詞の内容というより彼女の歌声に聞きほれてうっとりしていました。
 ナースというよりナッスィングはぼくの手の存在を確かめるみたいにもんだりさすったりしていましたが、
「でも男と女は不思議よね」
「どうして?」
「凹凸を埋めればゼロになるはずなのに、子どもが生まれてプラス1になる」
 ナッスィングはまるでぼくの性的嗜好を高まった脈拍から確かめようとするみたいに手首に指を当てていましたが、やがて、
「受付から始めてみる?」
 そう小さな声で言うと、がちゃりと鍵を開ける音とともに、小窓のすぐ隣のドアが開き、光が漏れてきました。

 内部はとても狭く、薬の瓶が並んだガラス戸棚や書類の詰まっているらしいロッカーで壁の二面はふさがれ、もう一方にはナッスィングの仮眠スペースでしょうか、折り畳み式らしい簡易ベッドが置かれています。
 枕元のサイドテーブルには、『悲しみよこんにちは』、『ああ無情』、『イワン・イリイッチの死』、『死者の奢り」の文庫が積まれていました。
「きみはここで寝泊まりしているの?」
「帰る暇がないの」
「それは大変だね」
「いいのよ。どっちに帰ったらいいのかもわからないんだもの」
 そう言いながらベッドを整え、ぼくに座るように促し、
「たいしたものはないけど、バリウムでも飲む? ヨーグルト風味よ」
「いや、いいよ」
「消毒用アルコール95%もあるわよ」
「いいんだ。気を使わないで」
 この世界にはもう慣れたものなので、ぼくは平然と枕元の文庫を手に取り、
「小説が好きなんだね」
「読む暇はないの。だから本屋さんに有名なものだけ届けてもらって、背表紙だけ寝る前にちょこっと読むの。『ああ無情』って響きがいいと思わない?『レ・ミゼラブル』と比べるとはるかに抒情的だもの」
「言われてみると、確かに『ああ』なんて溜息のようだね」
「そうでしょう」
 と彼女はうれしそうに笑います。
 とはいっても蛍光灯の明かりの下でも白衣だけがやたらに白く眩しく、顔も腕も脚も影のように暗いのです。だから笑っているように見えるのも声や仕草からそんな気がするだけで、表情を見たわけではないのでした。
 それにしても、この人はたったひとりで受付に料理に掃除にと何役もこなし、夜ベッドでひとり本のタイトルだけ読んで寝ているのかと思うと、胸が締め付けらました。
 ナッスィングはぼくの隣に腰を下ろし、
「ね、あなたはすてきな小説のタイトルを知ってる?」
「そうだねえ……『長距離走者の孤独』とか『百年の孤独』とかどう?」
「わあ、すてき! 読んでみたいな、そのタイトル」
 ぼくは彼女を喜ばせようと頭をひねります。読んだことがあろうがなかろうが関係ないのですから、思いついたものを挙げていきました。
「『生まれいずる悩み』、『人間失格』、『暗夜行路』というタイトルも読んだことがあるよ」
「どれもうしろ向きなところがいいわね」
「ええと、『車輪の下に』」
「轢かれるようすが目に浮かぶわ」
「『死の家の記録』、『悪霊』、『荒涼館』」
「とっても親近感が湧いてくる。あなたたくさんタイトルを知っているのね。すごいな」
「まあタイトルならけっこう読むんだ。好きなのかな」

 ぼくたちは自然とまた手を握り合っていました。
 それはそうなのです。お互いにどんなに人のぬくもりを感じたく思ってきたことでしょう。ぼくは自然と彼女を引き寄せ抱きしめました。すると彼女もぼくの背中に手をまわします。そのまま背後のスイッチを切ったので受付室は暗闇に包まれました。
 小窓から見える『非常口』のマークが緑色のほのかな光で小窓を照らすだけのなか、ぼくたちはベッドに体を横たえるのでした。

(続く)

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