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【長編小説】パンプキン・パイの不思議な冒険 その8

 草花の匂いが鼻を、葉の囁く声が耳を、そして心地よい微風が顔をくすぐります。まぶしさのため薄目を開けて見てみれば、緑豊かな草原に花々が咲き乱れ、近くには透き通った小川が流れています。
 このように明るく美しい世界なので、きっとぼくは覚醒直前のレム睡眠状態にあり、瞼から朝のさわやかな光を感じているに違いないと思い、元気が出てきました。
 
 目が慣れてきたので辺りを一望すると、草原のなかにヒツジかなにかの群れが三々五々と草をついばんでいるようです。草を踏みつけてできた道に誘われるように進んでいくと葉の生い茂った大木があったので、こんなに穏やかでよいところなのだから木陰で寝ころびながら羊飼いがやってくるまで呑気に過ごそうと思い、シロツメクサの絨毯に腰を下ろしました。
 
 すると背後で「メ~」と怒ったような声です。大木の反対側に一匹のヒツジが悠然と寝転んでいるのでした。
「おや、昼寝の邪魔をしちゃったかな。ごめんよ」
 気さくに声をかけ、気にせずに寝ころぶと、
「メ~、メ~」
「なんだいうるさいね。ちょっと休ませてくれよ」
「ダメ~、ダメ~」
 ぼくはぎくりとして、羊を振り返りました。
「まさかね。ヒツジがしゃべるなんて夢じゃあるまいし」
「ユメ~、ユメ~」
「いや夢でも動物はしゃべったりしない。そんな夢見たことない。現実の世界ならまだしも」
「バカメ~、バカメ~」
「なんでバカなんだよ」
 するとヒツジは、まるで入れ歯のかみ合わせを直そうとするみたいに下あごを左右に動かしてから、おもむろに、
「おれたちがこの草原を支配しているのは、言葉の尻をとらえたからだ」
 ぼくは恨めしく思いながらヒツジに聞きました。
「どういう意味?」
「おれたちの祖先は逃げ出したとき、言葉の尻をとらえ言葉を飲み、そしてこの地で言葉を吐き、言葉に花を咲かせた」
「祖先ってだれのことだよ」
「いなくなった一匹のヒツジを愚かな人間が捜しまわるあいだに脱走した勇敢な九十九匹のヒツジ」
「逃げ出したのは九十九匹のほうではなくて一匹のほうじゃないのかい?」
「愚かな人間は、一匹のヒツジ惜しさに捜しまわり、そのあいだに九十九匹が出エジプトしたのだ。新約聖書外伝『九十九神つくもがみ絵巻』を読んで勉強しろ」
「でもそれで、どうやってここを支配しているのさ」
「バカメ~。無知な奴には理解しやすいように『たとえば話』をしてやろう。たとえば天敵に遭ったときに、おれたちはこう言う、『話せばわかる』。すると敵は『わかるなら話せ』と言う。『おれはヒツジではない。コモドオオトカゲだ』と言う。すると敵は『あの毒をもちスイギュウすら食べてしまうあのコモドオオトカゲか?』と問う。おれたちは言う『ああそうだ、そのコモドオオトカゲだ』。すると敵は一目散に逃げていく、という寸法だ」
「それはそれは」とぼくは笑いをこらえながら「どおりでヒツジが多いわけだね」
「生物最弱の人間ほどではない」
「最強の、だろ?」
「オロカモノメ~。弱い生き物は数が多く、強い生き物は数が少ない。人間はヒツジの数を優に越えた弱肉強食界の最下層にいる」
「生態ピラミッドは人間には当てはまらないよ。人間は例外だ」
「地球上の生き物として例外などあるものか」
「だったら人間はどんな肉食動物に食べられているっていうんだい?」
「天災と戦争と疫病」
 その刹那、身体中に悪寒が走りました。
「やつらは大食いらしいな。一度に何千何万もの人間を食べるそうだ」
「人間は天災と戦争と疫病に食べられるために数が多いわけじゃない。数が多いから大勢が食べられてしまうんだ」
「同じことだ」
 ぼくは言葉に詰まりながらも、
「それに減らすための努力だってしている。子どもはひとりと決めた夫婦はたくさんいるし、二十代の童貞や結婚しない派遣社員ががんばっているし、LGBTQの活躍もすごいんだからね」
「メメメメメメ。焼け石に水だな。全世界の人間の数は減らないどころか増え続けているではないか。だが安心しろ。大食漢どもは定期的にやってくるからな。そのときに備えて、せいぜい絶滅しないように数を増やしておくことだ。メメメメメ」
「言っとくけどね、天災となればきみたちヒツジだって被害に遭うんだぞ」
「人間には遠く及ばない」
「それはそもそも数が違うから……」
「だから底辺が人間だと言っただろう。理屈ばかりこねるくせに愚かなハダカデバネズミだな」
「ぼくはハダカデバネズミじゃない」
「毛がなくて愚かなのにハダカデバネズミじゃない? ではおまえはなんだ?」
 偉そうな態度のヒツジに腹が立っていたので、からかってやろうかと思いました。
「ぼくはね、オオカミさ」
 しかし残念なことにヒツジはメメメと笑い、
「ここにオオカミはいない。それに、言葉を得たおれたちにとってオオカミなどもう恐れる存在ではない。浅知恵のハダカデバネズミメ~」
「ぼくは人間だよ」
 するとヒツジは耳をピクンと立てて小さな目を大きくしました。ぼくはおやっと思い、それからもしやと思いました。
「もう一度言うけどね、ぼくは人間だよ」
 すると突如ヒツジは飛び上がるようにして立ち上がり、
「ダメ~! ダメ~!」
 と叫びながら見るも哀れなほど取り乱し、
「ユメ~! ユメ~!」
 と転がるように草原を下っていきました。
 周囲で草をついばんでいたほかのヒツジたちも伝染したように取り乱し興奮し、列をなして牧草地を越え、あっという間に茂みのなかに消えてしまいました。
 突然ヒツジのいなくなってしまった草原はなんだか寒々しく、生気をなくし、晴れているのに空は灰色となり、自分がまたノンレム睡眠の底に沈んでいくような思いに駆られて、ぼくはヒツジたちの後を追って駆けだしました。

 鬱蒼と木々の茂った藪に道が一本あり、高い木々が湾曲してトンネルのようになっていました。日の光はさえぎられ薄暗くはありますが、道は途切れることなく続いています。
 しばらく進んでいくと、なにやら話声が聞こえてきました。耳をそばだてると何人かが楽しげに笑い合っているようです。緩やかなカーブを速足で抜けると、その先に見えたのはなんとも不思議な光景でした。

 そこは少し開けた広場のようになっていて、木漏れ日が大きな切り株の丸テーブルと小さな切り株のイスを明るく照らしています。イスには三匹のヒツジと一匹のオオカミがそれぞれ座り、テーブルの上には白い大皿が載っていますが、皿は空っぽでした。
 オオカミはめざとくぼくに気づきました。
「これはこれは、またお客さんだ。あなた、どうぞこちらへ。わたしたちとお話しましょう」
 そう言うと空いている切り株のイスを示しました。
 三匹のヒツジは笑い止んでぼくを見ると、
「おや、見かけない方ですね。どなたでしょう?」
「はあ、あのう、旅のものでして……」
「ああ、モノさんですか。どうぞどうぞ。一緒に食事はいかがですか?」
 光景がどうにも奇妙で座るのがためらわれます。
「なぜオオカミと一緒にいるんですか?」
 すると三匹のヒツジはメメメメメと腹を抱えて笑いました。
「モノさんも騙されましたね。ぼくたちもさきほど騙されかけて、それは恥ずかしい慌てぶりを見せてしまったんですよ。メメメメメメ」
 そして別のヒツジが、
「そちらの方はオオカミなんかじゃありませんよ。ロバさんです」
「ロバ? どう見てもオオカミですけれど……」
「メメメ。本当に。実際どう見てもオオカミですからね」
 と三匹目が身体をよじります。
「だからオオカミなんですよ!」
 ヒツジたちはびくっとしてお互いを見つめあいました。
 するとそれまで微笑を浮かべぼくたちをかわるがわる見ていたオオカミが言いました。
「モノさん、あなたがわたしをオオカミだというのも無理はありませんよ。でもね、わたしはオオカミではなくてロバです」
 するとまたヒツジたちは身体をよじって笑います。
「ははあ、わかったぞ。そうやってヒツジを騙して食べてしまおうって腹だな」
 するとヒツジたちは一斉に笑い止み、びっくりした顔でオオカミとぼくを見比べます。
「まいりましたね。なにを根拠に……」
「だって、さっきからよだれをたらしっぱなしじゃないか!」
 ヒツジたちは急に動揺して、イスから腰を上げました。
「いいえ、これは汗です。わたしは多汗症ですから」
 するとヒツジたちは安心してイスに座り直しました。
「かわいそうなヒツジさんたちを怖がらせて、モノさんは残酷じゃありませんか?」
 オオカミはよだれをぬぐいながら言いました。
「そうだそうだ。ダメ~だよそういうの」
「でもね、わたしはモノさんの気持ちもわかります」
 とオオカミはしんみりした声で言います。
「確かにわたしの外見はロバというよりもオオカミに見えますからね。そのせいでずっと苦労してきました。仲間のロバたちからは怖がられてだれも友達になってくれませんでした。反対にわたしを仲間だと思ったオオカミたちが狩りに誘いますが、わたしにそんなことできるわけがありません。見つからぬようこっそりと草をついばんでいたものですよ。見つかればロバだとすぐにばれて、きっと食べられてしまったことでしょう。どんなに辛い日々だったことか」
 オオカミは肩を震わせて泣きだすのでした。
 ヒツジたちはオオカミの周りに集まり、蹄をオオカミの肩に置いて慰めます。
「ありがとうヒツジさん。あなたたちが信じてくれたおかげでいままでの辛い経験も子ブタの藁の家のように吹き飛びました。さあ食事にしましょう。ほうら、草原の草をこんなに集めたんですよ」
 オオカミは新鮮な草であふれたバケツを見せ、草を皿の上に広げました。ヒツジたちはテーブルの上に乗りださんばかりの勢いで一心不乱にかぶりつきます。
「ウメ~ウメ~」
 次の瞬間でした。オオカミは、テーブルの下に落ちていた草を食べようとテーブルの陰に隠れた一匹ののど元に頭を滑り込ませたかと思ったらくわえ上げ、跳ねるように広場の端に運んでいってしまいました。
「ほら見たことか、バカヒツジ! 一匹が殺されたぞ」
 二匹はぴたりと動きを止め、きょろきょろと仲間を探します。広場の端でオオカミは言いました。
「どうもお友達は日射病のようです。わたしが介抱しておいてあげますから、遠慮なく食事を続けてください」
「そうでしたか。ではお言葉に甘えて…… はて、なにやら妙なにおいが。血のにおい?」
「違いますよ。その草は鉄分が豊富ですからそんな気がするだけです。存分にお食べなさい」
「そうでしたか。では安心していただきます。ウメウメ」
「本当にバカだな。自分の鼻や本能をもっと信じたらどうなんだ」
 ぼくは投げ槍に言いました。
「モノさんはさっきから失礼じゃありませんか?」
 とヒツジの一匹が、口を休めずに言います。
「『ペンは剣よりも強し』。わたしたちの宿敵、人間が作った格言です。ロバさんの言葉を信じずしてなにを信じるべきでしょう。言葉は暴力に優ります」
 するともう一匹も言います。
「本能に頼る原始的な時代はもう終わったのです。人間の最大の武器を利用して、ぼくたちヒツジが人間を蹂躙する日はそう遠くありません」
 気がつくとオオカミがまた二匹に近づいていました。
 一匹しとめたので安心したのでしょうか、今度はもっと大胆に、テーブルに飛び上がると馬乗りになってヒツジを押さえつけ、ためらいもなく首をかみ切ってしまいました。
 赤い血がテーブルに広がり、最後の一匹のヒツジの羊毛が赤く染まっていきます。
 オオカミは真っ赤な口を広げて笑みを浮かべました。
「しまった。トマトジュースをこぼしてしまいました。いまきれいに拭きますね。もっとこちらに寄りなさい」
「どおりで赤いと思いました」
 そう言うヒツジの体は哀れなほどに震えています。
「なぜ震えるのです?」とオオカミは笑い「たかがトマトジュースじゃありませんか。さ、こちらへ」
「そうですね。でもトマトジュースだとわかっていてもなんだか震えてしまうのですよ。不思議なものですね。おや、きみはもう食べないのかい?」
 オオカミの下で痙攣しているもう一匹のヒツジに聞くと、
「もういらないそうですよ」
 とオオカミが代わりに答えます。
 そのさなかにぼくはゆっくりと後ずさりしてオオカミたちから距離をとり、もう大丈夫かというところで叫びました。
「やいオオカミ、もう二匹もしとめたんだからいいじゃないか。そのヒツジは逃がしてあげたらどうだ」
 真っ赤な顔をこちらに向けたオオカミは、またにやりと笑います。
「奇妙なことを言うものだ。人間こそ満腹しても際限なく殺しているではないか。おれなんかたった三匹だぞ」
 三匹目にのしかかりながらオオカミは言いました。
「ヤメ~ヤメ~」
「うるさいぞ、愚かなヒツジめ。言葉などに頼ろうとするから肝心なことがわからないのだ」

 ぼくはオオカミに背を向けて全速力で走りだしました。途中何度も振り返りましたがオオカミが追いかけてくる様子はありません。しかし油断はできないので息ができなくなるまで走り続けました。

 こんな世界から早く抜け出したいと思いながら、元の世界――そこは言葉の溢れる世界です――に戻りたいと思いながら、オオカミの最後の言葉が不思議に重いのでした。
 それに、ヒツジたちがあんなに凶暴なオオカミよりも人間を怖れていたことを思うと、また、言葉など知らなければあの三匹は助かったかもしれないと思うと、戻るのが恐ろしいようにさえ思えてくるのでした。
(続く)

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