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早朝CHINA TOWN en LA|中国系移民虐殺事件を通じロサンゼルスの歴史を学ぶ

前日にLAに到着して、
ホテルがなく、
散々歩き回った挙句、
夕食はコンビニで済ませた我々。


朝から腹ペコ。

あ、私たちの旅は食に乏しい
貧乏旅行なので
期待しないでください。

おしゃれなお店なんて出てきません。

なんとなくホテルを飛び出して、
周辺散策を始める。

パラグアージョス エン LAシリーズ。

日本を離れ7年、ラテン感覚が多くを占めている
ラテンアジア人の旅日記です。

チャイナタウンでインスタ映え?

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ホテルの裏側を歩いてみた。
どっこも閉まってるぞーー!

ここはチャイナタウンっぽい。

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LAのチャイナタウンといえば、
ストリートアートが有名らしい。

せっかくだからインスタ映えしてみよう!

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どう?
私のアカウントってインスタ映えとは無縁な気がするけど。。

あはは〜!

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うーん。夜はレストラン街なのかな?
とにかく何にもないぞ。

LAの広い敷地がさらに寂しさを演出してきあがる。

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市場の裏かな?

パラグアイ感!

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フェンスに有刺鉄線ぐるぐる巻き!
パラグアイ感💗


早朝のチャイナタウンのパン屋さん

こんなパラグアイ感満載の通りの

唯一空いていたパン屋さんに立ち寄ってみることに。

Long’s Family Pastry

ここはメロンパン風のパンとか、月餅とか色々売ってる。

私たちは、昨日のパンの激安詰め合わせセットを購入。

こんな感じでインスタにも写真上がってるね。

パンを食べながらチャイナタウンの端っこの方を歩く。。

すると、、、、


LAメトロ、チャイナタウン駅

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てでーーーーーん!
チャイナタウン駅に到着!

なにこれーーーー!

メトロのチャイナタウン駅だそうだ。
なんかすげえ。。

近くにはロサンゼルス州立歴史公園と、ドジャースタジアムがある。


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パラグアイのケータイ(CLARO)北米もローミング無料のはずなんだけど
全然機能しないNo Funcionaなので、インターネットに繋がらず、よくわからん!

と、駅の前の広場に座ってふてパンを食う。

ここから適当に電車に乗りたいんだけど、
今日はギターや REBELONE RADIOのTeeを受け取らなきゃいけないのと、
色々で、、、

とりあえず我慢。

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えーーーー
乗りたすぎるやろー。ただ乗って帰ってくるだけでいいからー。笑
7daysパスがあるんだぞー!

でも衝動を抑える。我慢。Pacienciaが必要です。

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シメの胡麻団子。

最高やな。

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ちょっと散策して、さっと帰って、

ホテルであれこれ手続きをせなな。
今日はYukoと合流するし。

いちいち可愛いチャイナタウン。


ロサンゼルス、チャイナタウンの歴史

1860年代初頭、中国の広東省から鉄道建設のために多くの人が
LAに定住したらしい。
ゴールドラッシュでやってきた移民が鉄道建設のためにこの地に集まってきた(集められた?)らしい。
パラグアイの鉄道建設と同時期かな。
パラグアイ鉄道の創業が61年だから、
LAに引けとってないというか、
もっと早く鉄道が整備されてた。
当時どれだけパラグアイという国が栄えてたか
よくわかるよね。

●パラグアイの鉄道に関する記事⇩


もともと中国系移民のコミュニティがあったのはこの場所ではなかったという。

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これがニューチャイナタウンとも呼ばれるCentral Plaza
ニューチャイナタウンって言ってるけど古いなー!

なんて息子と言ってたんだけど。

もともとチャイナタウンは現在のユニオンステーションのあたりにあったらしい。

当時ユニオンステーション近くの
最悪の治安の通り『Calle de los negros』スペイン語で「闇の通り」
沿いに多くの中国系移民たちは暮らしていたらしい。
現在のロサンゼルスストリート。


CALLE DE LOS NEGROSと呼ばれた道

これを語るためにはまずスペインからの入植者が1781年にアフリカ系移民や先住民族と共にメキシコからロサンゼルスを訪れ開拓したことを書かなくては。1815年に現在のEl Pueblo de Nuestra Señora la Reina de Los Angelsとしてこの地に定着している。

スペイン、メキシコ、アメリカの支配、時代と共にスペイン語から英語へ変容していった。

米墨戦争が終わったあと、この土地は人種に対して不寛容になっていた。
さらにはゴールドラッシュの落ち目の鉱夫、無法者、売春婦、お金を求めて南下してきたもの、サンフランシスコを追放されたものなどが集まっていた。

そのため、現在のユニオンステーションの一角は、酒場や売春宿の集まる治安の良くない土地として知られ、ラテン系住民はCalle de los negrosと、アングロアメリカ人(英語を話すいわば白人層)はNigger Allyと呼んでいた。
ラティーノにとってネグロとは人種差別用語ではなく、現代も人種を指す場合むしろ中立の立場から使われる言葉であるとのこと。というかこの場合、肌の色を意味していない。(しかし、英語ではアフリカ系アメリカ人への差別用語となっている。)毎日起こる殺人事件がほぼこの地域に集中していたことから闇のストリートと呼ばれていた。

諸説あるものの、日本でも使われる言葉、腹黒いという表現のようなNegroをスペイン語でも使う。ネイティブアメリカンはアメリカではレッドとされるけど、スペイン語圏ではMorenoやNegroが肌の色として一般的であるため差別的な用法よりも、腐敗したもの闇、裏社会を指す方が強い気がする。Mano Negraという言葉を思い出してもらったらわかると思う。アフロ系移民のことではない。闇の仕事をするものって感じだ。マフィアってこと。白人解釈になると、どうしてもそこに人種差別的意味合いを上乗せしたがる。まずここは勘違いしてはいけない。

1850年代、裕福な白人層は自警団を結成した。メキシコ移民との間に大きな摩擦が生じていた。メキシコ人による凶悪犯罪の噂が上がると、彼らは馬を率いてリンチを行った。60年代までメキシコ人へのリンチは続いている。

その頃中国系の移民はわずか十数人だったという。
その後1870年代には先に述べた鉄道建設のために定住した二百人近いコミュニティが形成された。その約半数が、Calle de los negrosに住んでいたという。その頃ロサンゼルスは貧富の差が広がり、金の採掘量の減少、鉄道の完成、干ばつなどでアングロアメリカ人たちも多く失業し、カリフォルニアに集まってきた。


中国系移民虐殺事件

白人労有働組合は白人労有働者の賃金と生活水準を低下させてるとし、中国系移民へ不満を向けるようになった。

1871年10月24日、ロサンゼルス史上最も残忍な人種暴力事件とされる中国人殺人事件が起きた。イギリス人が中国人同士の発砲事件に巻き込まれ死亡したことをきっかけに、五百人の『あらゆる人種』が暴徒化し、中国系移民を襲撃した。

結果19名が殺害された。正確な死者数などはわかっていない。これを受けCalle de los negrosはLos Angeles Streetと改名され、10年後には解体された。しかし中国系移民への排外は続く。1882年中国人排斥法により中国からの移住は10年に渡り禁止された。Los Angeles Streetの犯罪率は下がったものの、政府は中国系コミュニティを無視し続け、20世紀に入って最後に下水にアクセスした地区となった。

アジア系移民がこの地で辿った歴史である。

特筆すべきは、日系移民がこの地に辿り着く15年も前の出来事であるということ。
10年続いた中国人排斥法の後、この現ユニオンステーションから少し距離を置いた場所に日系のレストランができ、リトルトーキョーが形成されていく。

もう一度、ユニオンステーションの人種についてのお知らせを思い出してほしい。リンクの最後の部分↓↓


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現在のチャイナタウンから、そんな歴史を想像することもできない。
このニューチャイナタウンの背景には虐殺と強制撤去の歴史があったのだ。


中華系アメリカ人博物館

旧チャイナタウンのあった場所には現在中華系アメリカ人博物館が設けられている。

なぜあの場所に博物館があったのか、
私も今回このことを調べて初めて知った。

そういえば私たちが昨夜Slurpeeを食べながら歩いていた道は
このロサンゼルス・ストリート。

中華系アメリカ人博物館の前の、Calle de los Negrosがあったであろう道だった。


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ロサンゼルスの歴史はパラグアイよりもはるかに複雑だ。
スペインからメキシコ領になり、アメリカとなった。
カリフォルニアにいたネイティブアメリカン、メキシコから来た人(スペイン系、インディヘナ、アフリカ系)そこにゴールドラッシュで集まった人々が加わる。大元にスペイン語から英語という母体の変化がある。


こちらも併せてどうぞ⇩


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LAの至る所にスペイン語があるのは
メヒコからの移民が多いからじゃない。

そもそもここはスペイン語圏だったんだ。

いや、そもそもで言うとネイティブアメリカンの大地だ。


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私はとても無知だ。
本当になにも知らなかった。

チャイナタウンを見ればただ喜ぶだけ。

美味しいものが食べられる。
雰囲気が好き。

何もわかっちゃいない。


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旅をすることは知ることだ。
学ぶことだ。
自分の狭い視野を広げることである。

知ったつもりになって、それでも何にもわかっちゃいない。

だからまた旅に出る。

帰ってそれを記す。

こうして。
人目に触れることのないであろう文章を
ひたすら残していく。

ニューチャイナタウン・フォトストック

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朝のチャイナタウン。
どっこも開いてない!

けれどとっても楽しい。


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ス、ス、ス、スヌーピー?!

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隣座ってもいいっすか?爆笑

やばい。楽しい。

チャイナタウン閉まってるけど、、、

楽しいいいいいい!


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私にとって旅は
きっとみんなのとは全く違うかもしれない。

私たちの旅は
美味しいものなんて食べる余裕もない。

名物の店に行ったり、
買い物をしたりする余裕なんてない。


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本気の貧乏旅行。
学ぶため。
生きるため。
知るため。
出会うため。
吸収するため。
成長するため。
楽しむため。


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チャイナタウンのメインストリートに出たみたい。
この辺はお店もちらほら開き始めてる。
パラグアイ的な服とか、中華街っぽいお土産もんとか
カリフォルニア!って書いたフーディとか
売ってるよ。

息子と私はカリフォルニアって書いたダサいアイテムを
探してるんだけど、なかなか高いね。

私はみなさんの想像を絶する、金銭感覚なので
お許しあれ。


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Pollo !!!!
あかん中華街楽しい!


メインゲート付近の名所

アジアな雰囲気に浸ってたけど、
街路樹はやっぱラパチョ!

奥に見えるのはOrd and Yale Street Park

赤と青の階段ね。

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空き地を利用した公園デザイン
急なカラフルな階段が新名所になるかも。


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南米の桜。ラパチョ。
LAが大好きだ。

とても遠くてとても近い空気がここにある。

こちらは
Southern California Teo Chew Association

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この竜の柱がカッコよくて。。

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中国のことって、近いけど
いや、近いだけにチャイナタウンで勝手に満足して
全然知らない。
神戸の中華街のイメージばっか。
でも近くでプチトリップできるから。。
なんかあんまりよく知らないな。

こういう建物が並ぶ街あるのかなー?

返還前の香港に入ったことあるけど。

香港と本土は違うと思うしなー。

私の中国のイメージって、、、

中華街のイメージだなって気が付いた。

移民の力ってすごいよね。

ラテンアメリカ最大級アルゼンチンの中華街は⇩⇩


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最後に正面ゲート!

いかがでしたか?

中国系移民の歴史。
ロサンゼルスの現在のハブで
発祥の地、ユニオンステーション付近の
El Pueblo De Los Angelesに
深く関係していました。

次はLAにおけるスペイン語の歴史。
ラテン系移民の歴史を知るために
かつてのCalle de los Negrosのあたりにある
メヒコストリート、
その後、リトルトーキョーについて書きたいと思います。

南米で暮らしてなければ、
ロサンゼルスをこんなふうに見つめることもなかっただろう。。


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とにかく広いんだわ。LA

道も土地も

大都会なのに見通が良くてさ。

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いいよね。

この感じ!

まだまだ続く!

tomiko

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