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【春秋一話】 5月 令和への改元から2年

通信文化新報 2021年5月24日 第7093号

 2019年5月1日の令和への改元から2年経ち、改めて日本の元号、改元について調べてみた。
 元号はもともと年号と呼ばれていたものだが、明治維新の際に正式に元号という呼び方になった。改元とは元号(年号)を変えること、改めることを指すが、日本では1300年以上の歴史の中で248回に及ぶ改元が行われている。
 私たちの年代では昭和から平成、そして今回の令和への改元しか記憶にないが、日本の歴史ではこれほど長い伝統あるものとなっている。
 日本の最初の元号は「大化」である。飛鳥時代、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が朝廷の実力者・蘇我氏を討ち、天皇を中心にした国家づくりを始めた「大化の改新」の際に制定されたものである。中国(当時は唐)に派遣されていた遣唐使が日本に持ち帰ったものであり、中国をモデルにした国づくりをしようとした意思表示と言われている。
 その後、大化、白雉(はくち)と続いたものの、すぐには根付かず、途絶えた時期もあり、現代まで続く元号のスタートは701年を元年とする「大宝」である。この年、大化の改新から半世紀以上を経て「大宝律令」が完成し、国家統治の基本となる法典が整備され、その中に「公文書などでは年号を用いよ」という一条が定められ、以後、途切れることなく現在に至るまで元号が使われ続けている。
 このような経緯のある元号であるが、モデルとなった中国では、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)で有名な清朝が滅亡した1911年の辛亥革命により廃止され、他の東南アジア各国においても元号を使用している国はなく、現在、元号を制定しているのは世界で日本だけである。
 これまでに改元が248回行われているが、元号制定時の天皇から今上天皇までは約90代であり天皇一代に一元号でないことがわかる。
 明治維新前までは、災害が起こったときや慶事があったときなど様々な理由で改元され、また、室町時代の初期には、天皇家が南朝と北朝にわかれて争い、それぞれに別の元号を立てていることなどから多くの改元が行われてきたが、江戸時代最後の元号となる慶応から明治に元号が変わる際に、明治政府は、改めて天皇を中心とした国家づくりを目指すため天皇一代につき元号を一つとする「一世一元の制」を定めた。
 しかし、この制定も終戦後の日本国憲法の皇室典範には元号を定める規定がなく、昭和という元号が慣例として使用されていたため、昭和天皇の高齢に伴い、昭和54年に「元号法」が定められ、「一世一元の制」など元号の決め方について明確化された。
 1989(昭和64・平成元)年、昭和天皇の崩御による皇位継承により元号は昭和から平成に変わるが、その後、2016(平成28)年、現在の上皇から正式に生前退位の意向が表明された。2019年4月に「令和」が事前公表され、5月、約200年ぶりに天皇の譲位に伴う改元が行われ現在に至っている。
 令和改元から2年、昨年からの新型コロナウイルスの災厄が大きくクローズアップされ、医療機関の逼迫やワクチン接種の遅れなど日本の対策が他国に比べて劣っているとの批判の声が聞かれるが、それらの批判に対して国内で暴動などの行動として表面化することは今のところない。これも伝統と文化に根ざした日本という国だからだろうか。
 コロナウイルスが早期に終息し、再生とともに令和が希望の元号として親しまれる日が来ることを願う。

(多摩の翡翠)

カワセミのコピー


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