メイヤスーをカンタンに読む(第3回)|『有限性の後で』4章
はじめに
前回の記事に引き続き、今回は数学的なものの定式化の方に踏み込む。
4章の問題
我々は思考から理由律を追放したと見なすことで、つまり思考によって思考の限界をそのように定めたとすることで存在者がそのように存在する理由を希求する限り、あらゆる宗教を復活させることでしか形而上学を退けることが出来ない。そうならないために、我々は非理由から引き出す知的直観に基づいて感覚可能な生成変化における普遍の幻想を告発する必要がある。
不条理?
事実論性の原理の避けられない帰結として、自然法則の実際上の偶然性がある。これを受け入れるならば、我々は、いつも事物が勝手に変化しないことを感謝しなければならない等、不条理を受け入れねばならない。それが動機となって、次の反論が生まれる。-事物のみならず、自然法則までもが実在的に偶然的であると主張するのは、馬鹿げていると思われる。なぜなら、もしこれが真なら、自然法則は、いかなる理由もなしに実際に変化していることが可能なのだと認めねばならないからだ。我々はこの反論に明確に、正確に反論せねばなるまい。
私たちが事物と結んでいる日常的な関係を全く変えずに、事物は理由なしに実際にきまぐれであり得る
我々は真面目に、この自然法則の安定性を奇跡のような偶然性であると主張しよう。そしてまた、「自然法則が実際に理由なく変化する」と同時に主張することで、不条理とも思わなくなる。というのも、現実的な必然性(反論が想定する数学的・論理学的なではなく、物理的な必然性)は、私たちにとって明白な世界の安定性を放棄することなしに退けることは出来ないだろうからだ。ここでは、自然法則の安定性という事実は、自然法則が偶然的である可能性という考えを反駁するのに十分なのだ。ただし、私たちを安定した世界に生きながらえさせた常軌を逸した偶然性を考えるのでない限りは。私たちに期待されるのは、私たちが事物との日常的な関係を保ったまま、事物が理由なく変わりうることの正当化なのだ。
ヒュームの問題
我々の上で期待している解決はヒュームの問題の思弁的解決と言えよう。まずは古典的な定式化を示す。-すなわち、同一の原因は、未来においても、他ガスベテ等シイceteris paribusという条件で、同一の結果を引き起こすだろう、ということを証明することは可能化。これは、因果のつながりの必然性を私たちが証明できるかという能力の問題とも言える。ちなみに、カール・ポパーの反証可能性の議論とこれは全く違う。ポパーが主張したのは、自然に関する理論が高級的に妥当だということを私達には証明できない(いまだかつて考えられたことのない状況での実験の可能性をアプリオリに排除することは出来ないからだ)ということで、ヒュームが考えたように因果性の原理を疑ったわけではない。むしろポパーは自然の斉一性の原理、因果性の原理は疑っていない。
ヒュームの問題2
ヒュームはこれを決定論の文脈で案出したが、問題の本質から言えば、決定論であれ非決定論(確率論)であれ同じである。決定論なら、状況Xにおいて、出来事Yが今日と同じく明日も、起こる/怒らない確率が同じであるかどうかを問うている。
またこれは物理学の実験に対しても同様に言えることであって、ヒュームの問題は、こんにちそうであったように明日も経験科学は可能であることを証明できるだろうかと定式化出来る。この問題には歴史的には3つ、そして今日4つの回答がある。形而上学的な回答、ヒュームの懐疑主義的な回答、カントの超越論的な回答。そして思弁的な私たちの回答。
形而上学的な回答
(ライプニッツの弟子のようなやり方で)ある完全な神が必然的に存在することを証明する。ついで神は可能な限り最善の世界―私たちの世界―を創造することしか出来なかったと推論する。そして、私たちの世界の、世界を統御する原理の永遠性は神の完全性(本質)自体の永続性によって保証される。この論証で存在すると論証される神は無条件的であり、問題の因果はその神の本性に由来すると考えられるようになる(直接的で無条件な証明)。
懐疑主義による回答
これがヒュームが提出した回答で、2つの契機に分割できる。
(a)因果性の問題についてのあらゆる形而上学的解決を拒むことから初めて、私たちが存在/非存在の真理を打ち立てるために用いうるのは経験と無矛盾律の2つだと考える。ところが、その2つとも因果性の必然性を証明できない。まず経験は未来について何も教えてくれない。経験はある法則が過去において真だったのと同様現在真であると述べるが、その法則が将来なお存続し、真であろうことは確立できない。また、同じ原因が次の日に異なる結果をもたらすだろう、と考えることはヒュームによれば何の矛盾もない(無矛盾律も効かない)。ここでは理由率が挑戦を受けている。ヒュームによれば何かが他でもなくそのように存在する理由は思考に到達不可能なものなのだ。というのも、諸法則の必然性を証明できないのだから、いかなる事物の必然性も証明できないのだ。逆に、無矛盾律と経験の要請に従えば、自然のプロセスも事物も出来事も別様可能である。存在理由を持ち、同一性の永続が明らかな存在など何もないと言える。
(b)ヒュームは、ヒュームの問いに対する回答の可能性を失効させる(a)のみならず、問題を解決可能な型に書き換える。-法則の必然性に対する私たちの信頼はどこから来るのか。事物の本質についての問から、事物と私たちの関係についての問への転換である。ヒュームの回答はシンプルで、これは私たちの慣れによるもの、反復されたものを同一のものと見なす我々の傾向性によるものだ、という。
超越論的な回答
正確には『純粋理性批判』概念の分析論におけるカテゴリーの客観的演繹(分析論の2章・3章)。実際のテクストは何回であるが、原理はシンプルだ。ここではその骨子を示す。
まず、実際にはいかなる類の因果的必然性も存在しないと想定して何が帰結するかを見る。カントによれば、因果性が表象を構成することをやめれば、現象界に属するものはなんであれ構造化するのをやめてしまう。表象可能でなくなる。しかし、現に表象があるのでいかなる類の因果性も存在しないのではないとわかる。法則の偶然性という仮説は表象という事実によって反駁されるのだ。
カントによれば、因果性があらゆるものを規定するというのは絶対的な必然性ではない。だが、もし意識が存在しているのならば、それはある種の因果性が必然的に現象を規定しているからに他ならないのである。
3つの回答の公準
以上3つの回答はどれも、因果的必然性という真理を疑いの余地なく認めている。注目すべきはヒュームである。彼は「自然の作用の最終原因」は私たちにとって不価値だと強調するが、ここでは自然のプロセスが持つ究極の必然性の存在が確かに認められている。彼の立場がまさしく懐疑主義なのは、真だと想定される必然性に対する同意を理性には基礎づけられないという立場にあるのだ。
思弁的な回答
この回答のポイントは上記3つが保持した公準を拒絶すること、ヒュームが教えてくれた、1つの原因から起こる100にも及ぶ出来事の可能性を真面目に受け取ることである。
もし理性が無矛盾律以外のアプリオリな原理を持たないならば、矛盾のないどんな可能性も許容するはずだ。理性は因果的必然性の明白な誤りを教えているのだから、因果的結合に対する―感覚からくる―信頼をむしろ誤謬として出発しよう。
ここでは、懐疑主義の立場、ヒュームの立場は最もパラドクス的だ。というのも、理性の原理が必然性を与えることに対して無能力であるにも関わらず、そうした必然性を―ただ生命としての傾向性のレベルで―信じているからである。この信念は(理性は、形而上学と理由率と対決するにも関わらず)事物の根底にある様々な摂理を信じること(狂信)につながる。私たちはこの様な立場に対して、現実から因果的必然性の背後世界を撤去させたほうが懸命だと思う。
私たちの観点からすれば、因果的結合の必然性が証明されないのは単に因果性が必然性を持たないからだ。(私たちはヒュームの問題を突きつける彼の立場が、世界の安定性を信じるという懸命でないものであることを暴いたことで、世界の安定性という事実は世界の偶然性という思考・仮説を反駁するのに不十分だ、と考えられるようになった、ということだろう。)
我々はヒュームの問題の最定式化を行うことで、その困難を置き換える。つまり-(真実だと思われている自然法則の必然性をいかに証明するかではなく)自然法則が偶然的なものだとみなされるとしたら、自然法則の明白な安定性をいかに説明するのか。なぜ自然法則が根源的で絶え間ない変化によってその偶然性を表さないのか。いかなる基礎づけによっても永続化されない法則から、以下にして安定した世界が帰結するのか。
非-因果的世界を信じられない人への注
ユークリッドの公準「直線と、直線上に存在しない点が与えられたとき、点を通り直線に平行な直線は与えられた平面上に一本しか引くことが出来ない」を証明するために、ロバチェフスキーは所与の一点から複数の平行な直線が多数引けると想定した。これは背理法によって公準を証明するためであったが、結果として彼は新たな幾何学に到達する。非-因果的世界を信じられない人は、これと同じように、因果的結合の必然性を証明するために、不条理を用いようとしていると考えてもらいたい。私たちがここで期待しているのは、ロバチェフスキーに起こったことが我々にも起こることなのだ。
ポイント・超越論的回答との対立
我々は超越論的回答を退けるために、因果的必然性の不在によって表彰が破壊されるわけではないと主張しなければならない(超越論的演繹の論理的な不在の告発)。
超越論的演繹の問題
カントによれば表象の必然的結合(カテゴリー)なしには世界は無秩序になってしまう。彼によれば意識という観念がそもそもこうした構造化を養成するものであり、このテーゼの元カテゴリーの客観的な(自然学・物理学において普遍的な)演繹が成される。また、現象についての可能な額無しに意識は存在しない。そして、法則の必然性は、意識の条件それ自体が作られる以上、議論の余地ない事実なのだ。
確かに、意識の条件になるという推論には同意するしかないが、これに同意できるのは安定性の概念に従ってであって、必然性の概念ではないと付け加えよう。私たちにとって議論の余地がないのは-自然学の条件と同格の意識の条件とは現象の安定性であるということなのだ。確かに、安定性の事実については異議を唱えられない。だが、カントがやった推論(以降「必然的推論」と呼ぶ)は疑わしい。それは、法則の安定性それ自体が、その強制的な条件としての法則の必然性を想定しているという推論である。
必然論的推論
1.もし法則が実際に理由なく変わりうるものであるならば、すなわち、もし法則が必然的なものでないとするならば、法則は理由なく頻繁に変わるだろう。
2.ところが、法則が理由なく頻繁に変わることはない。
3.従って、法則が理由なく変わることは起こり得ない。言い換えれば、法則は必然的である。
→2は疑いようなく事実だ。賭けどころは1である。1は法則の偶然性-変化可能性-から、法則の実際の変化の頻繁さを結論づけている(「頻度の帰結」と呼ぶ)。私たちの仕事はどの様な厳密な条件で、この帰結が拒否されるか明らかにすることである。
頻度の帰結
この帰結は因果的必然性に対する一般的信念のみならず、因果的必然性を護持するカントの議論を支えている。もし自然法則が偶然的ならば、「知れ渡っていたはずだ」とか、カントのように、知れ渡っていたならば、私たちはもはや何も知り得ないだろう、と考えるのは、偶然性が頻度の帰結を起こし、偶然性は経験において明らかにされるor経験の条件を破壊すると主張することだ。両者は頻度の帰結に立脚しており、その区別は頻度の強度によって(前者は経験できるほど弱く、強者は破壊的に強く)なされる。我々はこの両者の結論を明白にしているものを問おう。
必然論者の暗黙の原理
ここではジャン=ルネ・ヴェルヌ『偶然理性批判』を参考とする。ヴェルヌの目的はカントとヒュームが暗黙のうちに認めていた結論の本性を明らかにし、その意味をよく把握することであった(ヴェルヌは自然法則の必然性に対する信念を失っていない)。
ヒュームの問題の合理的解決の根本にあるのは、アプリオリに可能な・思考可能なものと、経験的に可能なものは大きく異なっているという点から来ている。ここではアプリオリに可能な偶然性に対して、経験的に可能なものが必然性を突きつけている。
そして、アプリオリなものが誤りで、経験的なものが偽りでないと肯首させるのは何か、が問題である。他のものでもなくむしろあるひとつの出来事が生じるためのいかなる理由もアプリオリに存在しないように配置された出来事の集合を考えよう。例えば、完全に均質で対象的な(と想定される)サイコロの場合である。イカサマでない仕方でそれを投げたなら、ある一つの面が上を向くいかなる理由も存在しないはずだ。そうしたアプリオリな仮説のもと、出来事が起こることに対して運を計算するとき、次のような暗黙の原理を認めている。すなわち-等しく思考可能なものは、等しく起こりうるものである。ある骰子の眼が他の目よりも優先して出るような理由はもはやない(数学的な意味で)のだから、私は出来事が起こる確率は全く等しい(量的に等しい)と考えるしかない。(確率計算の基礎でもある。)ここで、一時間、私たちのサイコロが同じ目を出し続けたとしよう。これは本当の偶然の結果としてはごくごく稀である。このとき私たちは、ある原因が(何らかのイカサマが)作用して、それによって唯一の結果が必然化されていると考えるだろう。このサイコロの目を無数に増やし、一生を通じてあるいは人類の記録すべてを通して同じ目を出し続けると想定すれば、これはヒュームが思考した状況とよく似る。まさしくヒューム・カントはイカサマを前にした賭博者のように推論している。それは次のような暗黙の推論である。-もし法則が実際に偶然的であるならば、偶然を統御している法則の観点からすれば、申した偶然性が決して自らを顕にしなかったのは不条理であろう。それ故、隠されたものかも知れないが結果の安全性を設営することの出来る必然的な理由が存在しなければならない。
賭博者の推論
カント・ヒュームは確率論的な論理を私たちの宇宙それ自体に拡張している。論理を再構成しよう。まず私達の物理的宇宙を思考可能な無数の宇宙の一つの事例とする。無数の宇宙は、ビリヤードボールを様々に変化させてしまう。異なる自然法則で支配されている。私たちはここで精神によって様々の宇宙からなる大文字の《宇宙》、《宇宙サイコロ》を作ったのだ。このサイコロの一つ一つの面が諸々の自然法則の支配する宇宙である。私たちは試しに《宇宙サイコロ》を回してみる。しかし出るのはいつも、私たちの宇宙という《宇宙-目》である。ここでは《宇宙》の斉一性の原理は保たれており、最初の条件が等しいことによって同じ結果が与えられる。そうすると、こうした結果の安定性がありえないということは不条理と思われるから、結果の偶然性という仮説は取れない。そのように考えられる、私は必然的理由の存在を推論する。ただしこの必然性は、外-数学的かつ外-論理的である。というのも、論理的-数学的必然性が示したのは《宇宙サイコロ》の各面が等しく思考可能だということだけであって、この必然性はこれに後から付け加わったものだからだ。つまり、サイコロの論理-数学的な必然性に加えて、結果における明白なトリック・イカサマを説明できる唯一の-第2のタイプの必然性(現実の物理的な必然性)-を持って必然性を二重化しているのだ。(この大2の必然性の源泉を「物質」と呼ぼうが摂理と呼ぼうが勝手であるが、ともかくこの源泉は謎めいた事実として残り続ける。)
要約
ヒューム・カントの推論は《私たちの宇宙》内の出来事に適用された理論ではなく、《可能的宇宙の全体》における可能な事例としてみなされる《私たちの宇宙》に適用された確率論なのだ。彼らは思考可能な可能性と経験可能な可能性の問の隔たりから、確率論についての次の錯誤を引き出す。-もし法則が実際に理由なく変化しうるならば、法則が頻繁に変わらないでいるということは極めてありえないことだ、という錯誤。彼ら、特にカントは、この思考可能な混沌は、意識と世界との相関性によって養成される最小限の秩序と連続性を不可能にしてしまうだろうと考える。こうして必然性は、非常にありえないと思われる安定性の事実(自然法則の持続可能性)によって証明されるのだ。
エピクロス的な必然論者への応答
最も複雑な有機体の出現は、極めて確率の低い結果として考えられるが、十分に莫大な回数の試行ができれば偶然(hasard)の法則に適うものだ。同様に高度に秩序付けられた私たちの世界は、カオス的なものが並外れた回数出現した結果であり、最終的に《私たちの宇宙》が安定したのだ。
これは非決定論的な自然法則という必然性を想定しているので受け入れられない。これはサイコロの確率論が成立するためにサイコロが同じ構造を保ち続けることを条件とするような必然性である。エピクロスの偶然的(aleatoire)偏見である原子のクリナメンは、自然法則-条件の普遍性を前程している。
次の仕事
私達はこれから、物理的必然性を持たないが、法則の安定性という事実と両立可能な世界を考えられるのでなければならない。従って、無矛盾律という論理的必然性以外に、現実的な必然性―優先の原理―を持ち込まない。必然性を二重化しないことが必要である。
よって、エピクロス的な偶然(hasard)の法則による応答はふさわしくない。これはある特定のサイコロの形や面の数、投擲を司る法則の普遍を前程しており、優先の原理を持っているからだ。(無矛盾律の原理だけから言えば、そうした法則の変更は矛盾なく思考できる=可能である。)また、この応答は、私たちの世界の教授が単なる運(chance)であると結論づける点で受け入れられない。この場合、いつも私たちは世界が無秩序になることを恐れていなくてはならない。
私たちの反駁で示されるべきなのは、自然法則の偶然性(contingence)は、偶然についての議論(raisonnement aleatoire)では到達できないということだ。私たちはエピクロスのようにヒューム・カントの議論の正当性を認めるべきでなく、むしろ彼らが偶然と確率のカテゴリーを、正当な適用範囲の外で不当に使用していると告発することで、彼らの議論を失効させるべきだ。つまり、偶然と確率のカテゴリーは物理的世界の法則自体には適用できないもので、そうした議論は無意味だと示すことが必要である。そして、私たちはいかなる点において法則の安定性が法則の完全な偶然性と結びついているのかを示すことになる。また、それは明らかに「健全な確率論」に反することも示すことになる。また、このことは絶え間ない無秩序に対する不条理な恐れを失効させることによって行う。なぜなら、この恐れは表象の実際の恒常性を、常軌を逸した運の良さとして見なすことに立脚しているからである。言い換えるなら、偶然の巡り合わせ(hasard)から本質的に区別されるものとしての、自然法則の偶然性(contigence)の概念を、入念にこしらえることが、次の仕事なのだ。
hasardとcontingence
偶然のめぐり合わせは、それを実現させる諸法則を前程している。大して法則の偶然性はそうした諸法則・条件それ自体に影響を与えうるようなものなので、法則の偶然性は偶然のめぐり合わせの概念に包摂できない。頻度の帰結は、法則が偶然の投擲の結果であるように論じる一方で、法則が実はその投擲の条件であることは見ていない。我々の無矛盾律から帰結する偶然性を、そうした偶然性のめぐり合わせは包摂できないから、頻度の帰結は避けられる。ただし、こうした反応は、偶然性の概念をポジティブに深めていないという点で不十分である。私たちの事実論的存在論は、「否定存在論」(対象が~でないという言明で満足する立場)ではないのだ。私たちが期待しているのは、私たちの偶然性の概念を次第に規定し、より豊かにすることなのだ。
私たちの探求は、何でも良いのではないカオスの条件へと向かうし、理由率から開放された理性の原理そのものに触れる。こうした過程で、理由の不在ということの定立的で明確な特性、カオスの明白な安定性の明確な条件が示されていく。またこの条件の提示はヒュームの問題の解決でもある。(この条件によって私達はまた、実在的必然性から開放された時間制の本性に深く踏み込むことができるようになる。)さて、こうした条件とは数学的な本性のものである。問題になるのは超限数(transfini)である。
数学的全体性のアプリオリ
私たちは偶然のめぐり合わせと偶然性を区別することで、数学敵全体かを要求する偶然的確率とそうでない偶然性を区別することで、バディウ『存在と出来事』の身振りに忠実であろうとする。頻度の帰結を退けるために、その推論―確率論―の前提となっているものを探ろう。頻度の帰結は強い存在論的な仮説-思考可能なものも事象の全体を構成するという仮説に従ってのみ真である。
確率論は、その集合に含まれる個数(濃度)は何であれ-無限であれ、数学的な全体が存在することが正当に機能する条件である。(集合の個数が無限でも、数学的には計算可能である。)そして、実験=経験されたのではない可能的なものを含む確率計算は、その条件として思考可能なものが全体として、直感は出来ないにせよ、存在することが必定なのだ。上記の私たちの《宇宙サイコロ》がまさしくそれにあたる。こうした全体の観念を抜きにすると、確率の推論は意味を欠いてしまう。
そして、頻度の帰結に従うものとしての偶然の巡り合わせは、数学敵全体性の観念を前提とする。私たちが頻度の帰結を導くにあたって《宇宙サイコロ》なる可能な宇宙すべてを含む全体を考えたのは、それが、可能的なものを《全体》として思考することは正当だとアプリオリに考えるからだった。
ところが、これからは思考可能なものの全体かはアプリオリなものとして保証されない。というのも、カントールの集合論以降、思考可能なものが、必然的に全体か可能であるという肯定を私たちに許容するものはなにもないということが知られている。カントールの革命の本質は、数の非全体化にあったのであり、これの別名が超限数である。
バディウによる存在と数学の連絡
バディウはこの点に関して、カントールの定理の存在論的な射程を主張した。ともかくバディウは、私たちに哲学と数学の間の論証的な通路を確保してくれたらしい(詳細はここでは追わない)。そして、私たちはバディウの身振りに習って、次のように考える。偶然性と偶然の巡り合わせを厳密に区別させる数学的な道が存在しているのであって、その道こそが超減数なのである。(以下超限数の問題の定式化は、アラン・バディウ『存在と出来事』の論証と関連付けることが出来るらしい。私はこの著作に詳しくないので、少なくとも今回は、この対応関係については考慮せず、ともかくバディウのおかげで数学の問題が哲学の区別に役立つのだと考えよう。)
超限数
集合についての標準的な公理系(ZF、ツェルメロ=フレンケルの理論)は、カントールの定理を起点としている。「カントールの定理」は次のことを表明する。ある集合と、その集合の要素(元)の再集合の集合を比べると、たとえある集合が無限集合であっても、常に、ある集合よりも最終号の集合のほうが大きくなる。こうして、もとの無限集合よりも常に濃度がより大きい諸々の無限集合の上限内連なりが構成できる。これが超限数の濃度の列と言われる。しかし、この列それ自体は全体化されえない。この列を集合Tとすると、必ず集合Tはその部分集合の再集合(冪集合)を持ち、Tの部分集合から得られる量を内包できないからだ。「あらゆる量の量」はここでは存在しないものとみなされる。この標準的な集合論の公理系において、集合一般はそれぞれ整合性の要請に従う証明の対象であるが、それは《全体》を形成しない。なぜなら、この思考可能なものの《全体》とはそれ自体・論理的に思考できないものだからだ。(あらゆる量の列は、あらゆる量の量にはならない)。ここから次のことが言える。-思考可能なものの(量化可能な)《全体》とは、思考不可能なものである。
ヒュームの問題の解決の戦略
私たちは、思考可能なものが常に全体か不可能であると主張するわけではない。私たちが主張するのは、少なくとも1つの公理系(集合論の標準的な公理系)によって、可能的なものが全体か不可能であると主張する手段を持っているということだ。そして、その様な公理系の持つ真理を想定できるという単純な事実によって、私たちは必然論者の推論を失効させることが出来る。というのも、集合論の公理系が可能的なものの《全体》が存在することについて、その本質的な不確実性を私たちに示しているからだ。また、その公理系によって自然法則は安全性という事実に神秘的な仕方で上乗せされた自然法則の必然性の存在への信頼についても、あらゆるその信頼の理由を失効させることが出来る。
必然論者の推論を失効させる
集合論の公理系が示す、可能的なものの《全体》の不確実性は、必然論者の推論をその基本的公準から破壊する。私たちが法則の安定性から、その必然性並行できるのは、公理系において全体化不可能だと説かれた今、可能的なものの全体か可能性はすべての公理系の結果ではない―アプリオリではない―ので、頻度の帰結が確実に価値あるものだということは出来なくなった。こうした可能的なものを全体化することの正当性について、私たちは無知であると言える。この無知は、経験においてすでに与えられている何らかの全体性の外部に確率論的推論を拡張することの非正当性を証明するのに十分なのだ。実際、可能的なものの全体化が不当であるならば、私たちは確率論的推論の対象を、経験の対象に限定すべきなのだ。「可能的なものは数的に全体か可能である/そうではない」という2つのテーゼは、アプリオリに思考可能であるから、経験のみが確率論的推論の妥当性を保証してくれる。可能的なものと違って、経験は、均質と想定されるサイコロや紐など、確率論的推論が機能するために必要な諸々の全体性を、《私たちの宇宙》のまさしく只中で与えてくれる。これに対して、カントの、法則の必然性に対する信念は、確率論的な理性を、経験の限界の外部へと適用しようとする超越的な主張として退けられる。
カント
というのも、カントは可能な偶然性に対する推論から、その作用の頻度の必然性への移行を種痘しているが(つまり現象界の法則の実際の偶然性が、極めて無秩序な現実の変化をもたらすと主張しているが)、ここで規定されている頻度が現実を無秩序にするほどの重大なものであるとカントは断言できるはずないのである。カントは、頻度が非常に小さい、法則の偶然性の可能性をアプリオリに排除しているが、そうした権利を彼は持たないのである。こうした実際にはない権利(偶然性の選択肢をアプリオリに排除する権利)を、カントは確率計算を(世界の中の所与の現象ではなく)世界の総体に対して適用することから得ている。カントはそうした適用を、可能的なもののアプリオリな全体化を介して行うが、カントール以来、そうした全体化は、論理的にも数学的にもアプリオリな必然性を持たないのだ。
ヒュームの問いに対する私たちの歩み
まず私たちは問題の再定式化から始めた。ヒュームによる偶然性の仮説は空想の産物だと前提しないで、私たちがその仮説の真理を信じるにあたって妨げになっているものは何か、ということを私たちは探求した。なぜなら理性は、その仮説を認めるよう要求したからだ。そして、ヒュームの仮説を退けようとする前提の源泉には、法則自体に適用された確率論的推論(《宇宙サイコロ》)があることに私たちは気づいた。またその推論は、思考可能なものは《全体》をなすという条件に基づいていて、これは仮説でしかないとわかったから、決して正当化出来ないものだと私たちは気づいた。
そして、私たちは可能的なものが《全体》を成す/成さないという2つの仮説から、後者を選択する。なぜなら、後者の選択肢において我々は理性が我々に示す法則の偶然性を認めることが出来、また前者の選択肢の持つ(なぜ安定的であるかという)謎に惑わされずに済むからだ。こうして私たちはヒュームの問題を解決し、それによって事実論性の原理に全面的に同意するための本質的な障害を取り除いた。-そして道中我々は、カントの超越論的な反論を、今や詭弁の一つとして退けたのだった。
語源
「偶然の巡り合わせhasard」(アラビア語のaz-zahr)という語と、「偶然的・確率的aleatoire」(ラテン語のalea)という語は、共に「サイコロ」「サイコロの投擲」「サイコロ賭博」という語源を持つ。2つの概念はどちらも賭博(遊戯性)と計算(可能なものの全体化と、唯一の真面目なものとしての確率計算)というテーマを呼び寄せる。
対して偶然性(contingence)という語は、ラテン語のcontingereすなわち「到来する」という語を語源に持つ。到来するのは何であるか、何に対してか。私達に対して(それほどの十分性を持って)偶然性が到来するのである。それは確率計算によっては数え上げられなかった冪集合であり、これが私たちの虚しい賭けに終止符を打つのだ。そして、この事体の肝要な点は-それが『存在と出来事』を導く直感を成していたのだが-計算も賭けも出来ない出来事についての最も強力な思考は、それでもなお数学的であって、詩的でも宗教的でもないということなのだ。
事実論的歩みの一般的意味
今や我々は、私たちのプロジェクトを次のように定式化出来る-私たちは、形而上学的な諸問題の現代的な解消dissolutionを、同じそれらの非-相関的な沈殿precipitationによって代えようとしている。この意味を説明しよう。
現代の哲学者たちの多くはヒュームの問題or「なぜ何かがあるのであって無ではないのか」を前にして何をするか。哲学者たちは問題を解消しようとする。つまり、その問は提起されてさえいない虚しい「偽問題」であって、いかなる謎めいたところもない、と説得しにくる。そして、彼らの関心はそうした偽問題の言語的・歴史的な源泉、いかにして「偽問題」が提起可能であったかを知ることなのである。
形而上学の終焉は、今尚この手の解体と同一視されている。しかし今や私たちは、形而上学的問題は解決(本文では解消と書いてあるが、解決が正しいと思われる)不可であるという信念は、理由律に対する永続化された信念の結果でしかないと理解している。なぜなら〈思弁とは現にこのようにある存在がそうであるための最後の理由を発見することである〉と信じ続けている者のみが、〈形而上学的問題はいかなる解決の希望も与えない〉と信じているからである。形而上学的問題を回答することの本質は、必然的理由を発見することであると信じているもののみが、その問題が決して回答を受け入れない事の本質は、必然的理由を発見することである、と信じている者のみが、その問題が決して回答を受け入れないことを見積もれる(現代的解消を行える)のであり、かつその権利を持つのだ。今や思考の限界をめぐる言説は、形而上学を否認しつつ保持することmainten denieから来るのだと知っている。従って、私たちにとって、形而上学の真の終焉は、古来の問の沈殿物を解消から救い出すこと、非理由律(沈殿物)に思考の正当性を与える企てとともに姿を現すのだ。というのも、理由律を放棄し、非理由を正当化することで、形而上学の問題を解決し、形而上学は、本質的に、その公準(必然的理由の発見)を取り去らなければ回答できない問を生産し続けるものであったと理解できるからだ。
従って、事実論の本質は、形而上学的問題の解消という歩みを、それ自体失効した歩みとして捨て去ることにある。なぜなら、解消の公準は、私たちが理由律を放棄するのに合わせて崩れるからだ。反対に、形而上学的問題は偽問題ではなく、解決を受け入れる心の問題であったことが明らかになるただし、形而上学の問題が真の問題であるのは、その解答が「いかなる理由もない」というもののみであると受け入れるという条件のもとである。〈なぜそれが他でもなくそのようにあるのか〉-「いかなる理由もない」。「私たちはどこから来たのか、なぜ存在しているのか」-「無からである、いかなる理由もない」。そしてここでは、解答として非理由を要求するという意味で、形而上学的問は優れたものだったと言えるのだ。「もはや神秘的なものは存在しない。それは、問題が存在しないからではなく、もはや理由が存在しないからである。」
ヒュームの問題の解決はしかし、我々を満足させない
ヒュームの問題の解決は、原理的に非カント的であった。それは、この解決が自然法則の実際の偶然性についての思考可能性を確立するからだ。しかし、この解決は反-超越論的であるにせよ、それ自体十分に思弁的だとは言えない。というのも、これまでの主張は可能的なものの脱全体化という仮設をともに主張するものであったからだ。これは単にこうした想定が可能であるという事実から引き出された結論に過ぎない。このヒュームの問題の解決は、事実論的思弁(resolution proprement factuale)は、事実論性の原理それ自体から可能的なものの非全体化を導出することを要請するからだ。(無矛盾律)整合性や「あるil y a」と同じ形成素の資格で《非-全体》を導出する必要がある。つまり、超限数を数学的に定式化される仮説として扱うのでなく、偶然的存在の明白な条件として思考する必要があるだろう。ただ、このことは私たちが論理的な必然性について確立しようとすることを、数学的な必然性においても行えることを想定している。このとき、我々はカントの即自について、論理的にだけでなく、数学的に復元(?)することの絶対論的射程を正当化出来るのでならねばならない。カオス―唯一の即自―が、実際に生み出しうる可能なものは、有限であれ無限であれいかなる数によっても計測されない(つまり全体化されない、量でない)こと、そして、このカオスの潜在性の超―莫大性が、目に見える世界の完璧な安定性を可能にしているのだということを(頻度の極小性)明らかにしなければならない。
しかし、この要求される導出は、整合性の導出より一層複雑で危ういものになるかも知れない。なぜなら、その導出は偶然性の絶対的な条件として、ロゴスの一般的規則ではなく、特定の数学的定理と言うより一般的でない対象を確立しようとするからだ。よって我々はヒュームの問題の仮説的な解釈にとどまっておくのが賢明である。というのも、ヒュームの問題の解決は、理由律を手放さない唯一の「理想的な」動機を遠ざけるのに十分だからだ。だが、もう一つの問題-祖先以前性の問題が、こうした慎重さを禁じる。なぜなら、この問題の解決には、数学的言説の絶対性を断固確立せねばならないからだ。つまり、今や私たちには2つの問題(現化石の問題とヒュームの問題)が数学の絶対論的射程に結びつけるように思えるのだ。私たちに残された作業は、この2つの問題を関連付け、非-形而上学的な思弁の任務がどこに存すべきかを正確に定式化することである。
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【参考】
カンタン・メイヤスー 千葉雅也・大橋完太郎・星野太 訳 『有限性の後で』 2016年 人文書院
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