私の常識は誰かの非常識
瞑想は、いつも外に開かれている意識を内に向けていく作業です。
ヨーガで扱うのは“自分自身“。
もし、今の自分を取り巻く環境や、様々な人を変えたい、と外側に意識が向いたら、順番としては先に自分の中にある、『価値観』をチェックすることをお勧めします。
何故なら、ヨーガの経典『ヴェーダ』には、
人は自分の心の中にある世界を外側に投影すると、記されているからです。
こうした、自分の内側の価値観や観念を調べる瞑想法を”ヴェーダ瞑想”と言い、
科学者がある法則を発見したり、
ビジネスにおけるPDCAサイクルによく似た
瞑想法だと言われています。
私も日常の中で、何か上手くいかないことがあったり、心がざわつく時には、この瞑想法を行い、自分の価値観をチェックしています。
とっても地味ですが、よく効きます(^^)
そこで、私が日々行っているヴェーダ瞑想のテーマをここでは紹介していきたいと思います。
興味のあるテーマから、トライしてみてください。
今日の瞑想テーマ
『私の常識は誰かの非常識』
私はヨガスタジオに勤務していたとき、よくこんな事を思っていました。
あの人の雑なところが嫌いなのよ〜ʕ⁎̯͡⁎ʔ༄
プンスカ。
これは、同僚が清掃をしたあとのスタジオを見て抱いた感想。
掃除の後なのに、髪の毛やホコリが落ちていたり、マットが整頓されていなかったり、、、
いつもそれを見て、イライラしていたわけです。
私にとっては、
ホコリが残っている=雑な仕事
そして、
「私なら絶対そうしないのに、信じられない!!!」
となり、
「あの人嫌い」
と進みます。いま考えると怖い😅
こうして、
ホコリひとつ残さず清掃する人は良い人
それ以外、悪い人
という価値観がどんどん強化されていき、嫌いな人を沢山作り始めるわけです。
幸いなことに、私はヨーガの伝統を学ぶことによって、ヴェーダ瞑想という手段を手に入れました。
この瞑想法によって、よくよく、自分の中を調べてみたら、
小学校の時の記憶のなかに、
先生から掃除の仕方を細かく習ったことや、
きれいに掃除をして、親から褒められた経験などが思い出されました。
それに気づくと、
私の常識👉清掃とは髪の毛やホコリ一つ落ちていない状態
で、単純に自分がそういう基準を作っていただけかー、と気づいたわけです。
私がそういう価値観を持っているだけ。
他人の言動や行動を通して、自分の価値観を見せてもらえただけなんですね。
コツは、そこから先、
自分と相手の「雑」を測る物差しのメモリが
違ったという事実を知っただけで終わることです。
どちらの物差しが正しいかの判断はしません。
この世界は相対的で2極の世界ですから、どこまで行っても、それぞれの立場によって、基準値が変わってしまうのです。
身長158センチの私から見ると、168センチの人は背が高い!けど、
148センチのマイマザーから見ると、私は脚が長くて良いね〜と羨望の眼差し( ◠‿◠ )で見てもらえます。(決して世間の方に比べて、脚が長いわけではないのに。)
このように、清掃の基準も、イケメンの基準も、美味しいの基準もみんな
私一人の物差しで決めているわけです。
ですので、どちらが正しいかを決めることより、会社なら会社の、家庭なら家庭の中の基準を関係者みんなで決めれば良いだけですね。
ということで、
今日の瞑想テーマは、『私の常識は誰かの非常識』でやってみましょう!
静かに座れる空間で、これまでの自分の日常の中で、相手の行動に対して、「ありえない〜」という思いが湧いた経験を思いだします。
そして、それが自分のどのような「常識」に照らし合わせていたのか?を調べてみます。
最初はここまででも充分です。自分の物差しを知るまででOK!
慣れてきたら、その「常識」が生まれた背景まで思い出せると、自分の常識の範囲を広げていくことができます。
最初は自分の物差し=常識だと思っていたということに気付くだけでも楽になったりしますからね。
この物差しの基準をいかようにでも変えられるようになることが、ヨーガで目指す場所です。
何事にも捉われない自由さ。
私はそこを目指して、地味〜に生きています♪