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[暮らしっ句]秋日和2[俳句鑑賞]

 風鐸の音 待ちぼうけ 秋日和  岩松八重
 寺に来て 留守を頼まれ 秋日和  江木紀子

「風鐸の音」、わかりますか? わたしは全然、記憶にありません。お寺ではかなり、ぼおーとしてきたんですけどね。つまり「風鐸の音」は退屈の象徴。「風鐸の音」が聞き分けられるくらい待たされた。それだけで相当のエアポケット感がありますが、二句目はもっとすごい。「寺に来て留守を頼まれ」ですからね。これは時間の問題とは違う、不条理の空白。でも、そんなことさえ赦せてしまう「秋日和」~
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 寄す波も 退きゆく波も 秋日和  川口利夫

 これだけだとナミの作品ですが、次の句を並べてみると……

 菓子つまむ 手のくり返し 秋日和  林裕美子

 わたしがつまんでるんじゃないの。手が自然に動くのよ!
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 コーヒーの濾紙折る妻や 秋日和  丸山勝利
 妻にまた 恋をしさうな 秋日和  松崎雨休

 年数が経つと空気のようになるとか、倦怠期になるとかいいますけど、それは当たり前のことであって、あらためて好きになる、惚れ直されることが必要なのかも知れません。
 しかし、特別なことでなく「コーヒーの濾紙折る」だけでも「恋」させてしまう「妻」もいる!
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 父の目へ 注すひとしづく 秋日和  坂場章子
 病む人と 粥の相伴 秋日和  二瓶洋子
 明日ありと 信ずる一日 秋日和  山口天木

 一句目は、すごく小さな空間と瞬間の切り取り。視覚で云えば拡大鏡。時間で云えばスローモーション。ふつうではありません。「病む人」の感覚。看病する作者が患者に同期している。
 患者(被介護者)に寄り添った看護(介護)が求められていると云いますが、患者(被介護者)が一番求めているのは、自分の世界に降りてきてくれる看護者(介護者)かもしれません。
 二句目にもそれに通じるものがあって一緒に食事した、ではないんです。患者(被介護者)に、特別に分けてもらったというニュアンス。
 何を? 小学校の問題なら「粥」。大人の解答なら「その人の今」。

「明日ありと信ずる」とはどういう意味か? 一見「明日をも知れない」と「明日ありと信ずる」は正反対のようですが、本当に「明日あり」確信していれば。わざわざ意識したりはしませんし、ましてやわざわざ信じることもありません。つまり「明日ありと信ずる」と「明日をも知れない」は同義。

 先日、大崎博子さんが亡くなられました。夕食の時にいつも通りにSNSにつぶやかれて、その後ベッドで永眠。「明日」はありませんでした。
 ただ「死」は二義的だと思うんですよね。親しい人たちにとっては、声が聴けなくなった、もうこの世界では活動していないという事実が悲しい。
 それって「死」じゃないのか?
 違うと思います。
 大崎さんの「明日」はなくなったけれども、「昨日」はあるわけですよ。SNSが評判になってから十年くらいですか。その十年間のどこのページを開いても大崎さんは生きている。その意味で大崎さんは「死」んでない!
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 赤ちゃんに笑ひかけらる 秋日和  赤座典子
 教え子に囲まれ嬉し 秋日和  荻野寿子

 いかにも幸せという記念写真のような作品…… 選句したときには深くは考えてなかったのですが、先ほどの「明日」問題を考えた後では、こういうことかと。つまり、この二句はまさに記念写真であって、そのひと時を過ごしている時から「いい思い出」となることが意識されてる。
 たとえば、成人式の写真。当人たちは無邪気なものですが、親はその写真がどういうものかを知っている。二度と繰り返されることのない、何十年も飾られ続けるものであることを。そういう視線もある、
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 ゆくりなく ぶらんこに乗る 秋日和  井上幸子

 これはどんなシーンなのでしょう?
 ゆっくりとぶらんこに乗ってるところ?
 残念でした~ 間違いではないけれど、ポイントはそこじゃありません。
 正解は「ゆくり」「鳴く」。「きぃーこ」「きぃーこ」です~

 思わず泣けたあなたには、きっと思い出がいっぱいあるのでしょう。
 小さな子がお母さんに話を聞いてもらいたいように「思い出」がしきりに語り掛けてくる。「そうね、そうだったわね」……
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 歳時記とカフエに座る 秋日和  松村光典

 俳句や短歌をやる人が、歳時記をくりながら、イメージをふくらませているところ? そうかもしれません。
 でも、もしかしたら、掲載作品から思い出の「ご相伴」にあずかっているのかも。作品はある意味、作者の「よかったら、どうぞ」ですから。

 本日も、ありがたくいただきました!

出典 俳誌のサロン 
歳時記 秋日和
ttp://www.haisi.com/saijiki/akibiyori.htm




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