[暮らしっ句]線香花火[俳句鑑賞]
伏す妻の線香花火 戯るる 池田喜代持
「戯るる」という言葉の無邪気さと予断を許さない「命の灯」の二重写し。
本当は「火」の状態は結果です。何かしら原因があって揺れる。「火」が自らの意志で揺れるわけではありませんし、ましてや人の運命を決める存在ではない。それはわかっている。でも、眺めていると「火」が人の運命を弄んでいるようにも見えてくる……
そんなに深刻な状況? 違いますね。そうじゃないんですけど、「火」は影を浮かび上がらせるわけで、ついそんなふうに見てしまったという感じでしょうか。
夫婦の花火、をつづけます。
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線香花火の雫を 夫に盗まれし 山尾玉藻
最後の火の玉をどれだけ長持ちさせることが出来るか……、線香花火のクライマックスなわけですが、そこを「夫に盗まれ」た。
夫に話しかけられたり、あるいはふれられて、その振動で火の玉が落ちてしまったのでしょうか?
もしそうなら「落とされし」ですね。「落とされし」ではおもしろくないので「盗まれし」としたのか。ふつうならその解釈でいいと思いますが、親しい人を亡くした人なら、こう考えるかも。「亡くなったご主人の気配を感じらたのね」と。
妻が夫を偲んで灯した線香花火なら、あの世から夫が出て来て「もらっていくぞ」と持ち去っても不思議はありません。
ただ妻としては、「完成させてから贈りたかったのに!」とムッとした。まるでとっておきの料理を完成前につまみ食いされたかのように。
「あなたったら、いつもそうなんだから!」と。
それこそが生きている二人のリアル。
手を合わせて「あなたお元気ですか? わたしもおかげさまで……」なんて祈っている時には夫の気配なんて感じない。日常の端々にこそ「冥界の小窓」が開く。
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一人居の 線香花火に寄りどころ 河合笑子
ぽつつんと 線香花火の涙かな 富村波聴
線香花火は、ひとり暮らしによく似合うとも云えますし、線香花火が独り者に居場所をつくってくれるとも云えそうです。
ひとり暮らしなら、居場所はあるんじゃないの?
それがそうでもないんですよね。夢中になれるものがなければ、いわば独房に近い。
こういうと、好きなことを探すのはそれこそ自己責任! と切って捨てられそうですが、ひとりで料理を作って愉しめる人はごく一部でしょう。どんなご馳走も一人で食べればそれなりの味。一人遊びを愉しめるのは、むしろ変わり者。
以上は、この句とは関係のない話ですが、何が云いたいかというと……、線香花火を通して故人と再会出来る人もいれば、「どうしていなくなったの」と、ずっとそこにとどまり続けている人もいる。
先述の句とこの二つの句にはそういう性格の違いがありそう。
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線香花火 むかしの闇は むらさきに 堀内一郎
線香花火の魔法はあまりにもささやかで、過去を明るく照らすほどではありません。けれど、漆黒の「闇」がほんのり紫色になった。すると、あの頃がシルエットで浮かびあがる……。憎いですね。逆光の演出。レンブラントでさえ斜めに光を当ててくれたのに!
ちなみに、影だからもどかしいとは限りません。影絵が実景以上に語りかけてくれることもあります。
近頃、歳のせいか、あの世のことを思うことが多くなりました。
後半は気分を変えて、未来に向けた句を。
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胎内を 照らす線香花火かな 華明日香
作者のお腹には生命が宿っているのでしょうか。病院で見せられた超音波画像がオーバーラップしたのか。
一般的に云えば、線香花火は、はかなさの象徴で死者のイメージに近い。ですが、作者はそんなことこれっぽっちも感じていません。ホラー映画なら、この後、鼻歌を歌っている若いお母さんに魔物が襲いかかるわけですが、そんなことにはならないわけで……
決してホラーではないんですが、胎児は死にゆく人に近いものがあるのかも…… 方向は正反対ですけど、ちょうどすれ違う位置関係にあるのかもしれません。そんな気づきをいただきました。
証拠? 証拠はありますよ。たとえば、この句
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孫の手は 線香花火と仲良しで 東秋茄子
小さな子どもと仏壇とかお墓参りとか、なぜかフィットしますものね。少し大きくなってくると、退屈そうに落ち着きがなくなりますが、小さい頃は法事でも嬉々としてたりする。
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母の手を添へて 線香花火かな 涌羅由美
その子にさらに母が寄り添うと、パーフェクト!
母子の理想像と云えば、ラファエロの絵が思い浮びますが、あの絵に老人とか死者のメタファーはありましたっけ? もしなければ、この句のほうが完全っぽい。
線香花火の向こうには故人がいますし、母子の花火の光景を眺めている作者が祖母だったりすれば、世代をつなぐ環の出来上がり! 世代をつなぐ輪は螺旋階段のように、クルクル、クルクル時を超えていく……。
出典 俳誌のサロン 歳時記 線香花火
線香花火
ttp://www.haisi.com/saijiki/senkohanabi.htm
イラストは、momoto_mo さん ありがとうございました。
蛇足
子どもさんがおられる家庭はそんなふうに血脈を守っていくのが一つの使命と云えるかも知れません。そんなものに縛られたくない! という方もおられるでしょうが。
では、子どもが居なかったり、はぐれてしまった者はどうやって時を超えていくか? この「問い」自体がトンデモ扱いされそうですが、今のわたしのセルフイメージは、未来行きの電車に乗る切符がない感じ。
さしあたっては歩くしかないわけですが、どこに向かえばいいのかもわからない。俳句を読み解こうとするのには、その手がかりを得たいという気分もありそう。
俳句の作者には、死んだら終わりだとは思っておられない。あの世の気配に気づいておられるかのよう方が多いんですよね。それだけでも、心強いものがあります。
仏教では「無常」がとても重視されるようですが、すべてが変化するなら、「変化」が「常」になってしまいます。川は岸があるから川。
そのたとえでいえば、わたしが目指したいのは「岸」かな。老いるということは「川」の時間が終わるということで、海に呑み込まれる前に「岸」を歩いてみたい……。
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