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東畑開人『ふつうの相談』~個別指導講師から見た感想


過去の東畑本の印象は「人文的なエッセイ」

 東畑開人は臨床心理士だが、いつも臨床心理学を外から眺めようとしている。東畑の本を読むと臨床心理学という学問はかなり奇妙なものであるらしいと感じる。いくつもの学派があり、それぞれの思想に従って臨床をすることになっている。私ならすぐ「科学的エビデンスは?」と問いたくなる。どうやら臨床心理学にはそういう所があるらしい。要するに、「怪しい」ところがあるのだ。東畑の本からはそんな臨床心理学への批判的な視線が強く感じられる。
 東畑の本は人文書の色が濃い。エッセイが多く、物語仕立てになっていることもある。東畑自身の体験と人文的な知識を融合して書かれている。あまり学問的ではないし、ましてや科学的ではない。その分読みやすいし、実践的に使いやすい面はあるが、私のこれまでの東畑本に対する印象としては、著者自身の趣味の色が強いと感じていた。具体的に言えば、東畑が臨床心理学を外部視点から批判するときには、その代わりに代入するものは決まって(広い意味での)人文学であるという印象を持っていた。もし理系の趣味を持っている著者であれば、臨床心理学にまず科学を対置させようとするだろう。進化心理学という有望な学問もすでに存在するのだし。しかし東畑に科学的な視点は少なく、進化心理学に言及したことがあったかどうかも私は記憶にない。だから私の印象としては、東畑の本は趣味で書いているものであり、読者もまた趣味で読んでいるのだろうと思っていた。

本書はただのエッセイではない

 しかし、『ふつうの相談』はただのエッセイではない。心に携わる対人援助職すべてに当てはまる臨床の一般理論を定式化しようと試みている。大きな地図を描き、その中に臨床心理学を位置づけ、他の臨床(ソーシャルワークや医療や教育など)も位置づけている。さらに、日常的に素人の市民たちによって織りなされているケアの世界も視野に収め、心のケアと言われるものの全体像を描き出している。そのため本書には図が多い。可視化することが本書の貢献である、という意志を感じる。また、言語による概念の整理も積極的に行っており、臨床と言われるものに一般的に通用する理論の構築を試みている。私としては予想に反して散文的なエッセイではなく、汎用的な理論のプレゼンテーションがなされていることに驚いた。著者が「ふつうの相談」なるものを本当に大事だと思っているからこそ、それを一般理論にまで高めることで、その地位を高め、その価値を臨床家たちに再認識してほしいという趣旨なのだろう。その試みは(少なくとも私にとっては)成功しているように見える。これまでの散文的、人文的なエッセイよりも説得力を帯びていると思う。

セラピーが有害になるケース

 それでは本論に入っていこう。まずは心理療法という仕事の限界を指摘した箇所を引用する。

たとえば、ある種の芸能人のように落ち込む暇もなく軽躁状態を維持しないといけない職業の場合には、セラピーの進行は有害になる場合がある。

 芸能人はセラピーを受けられないのだとすれば、鬱には対症療法薬を処方するくらいしかないわけだから、ある日バタンと倒れて休業するタレントが出てくるのも当然だし、芸能人が覚醒剤に手を出してしまいがちなのも理解できる気がする。もっと言えば、芸能人はしばしば怪しいスピリチュアルに傾倒したり新興宗教に絡めとられたりしがちだというのも、正規の心理療法では用をなさないのであれば納得できる話だと思った。では次。

あるいは、家族が強い宗教的信念で結ばれている場合には、セラピーはクライエントを孤立させてしまうかもしれない。

 この箇所もぎょっとした。宗教二世の心の悩みに対して臨床心理士は心理療法を施すことができない可能性があるという話だからだ。心理療法(とくに精神分析的心理療法)はクライエントの生育歴を辿り直し、今の生きづらさの原因を突き止め、それを修正して新しい物語を作り直すことで心を立て直す治療法だ。その過程で親から刷り込まれた信仰心を解除することになる可能性はおそらく高いだろうし、親からの強い介入に対する反発心や怒りが生まれてくることも予想される。それによってクライアントが現実的に損害を被る可能性がある場合には、あえてそこには踏み込まず、専門的な治療行為ではなく、「ふつうの相談」をしたほうがよいと東畑は言う。「ふつうの相談」とはまずは世間知に根差したものだという。このケースでは、宗教二世という一般的な問題が存在することを教えたり、ふつうの家庭と比べてクライエントの家庭はどうなのかを評価してみせたり、世間の常識ではどのように考えられているのかを示したりすることが助けになるだろう。しかしそうなると、心理療法という劇薬を処方できるケースは案外少なく、たいていの場合は「ふつうの相談」になってしまうのではないだろうか。そして、「ふつうの相談」とは本当に普通の相談であり、私も個別指導の講師として生徒と付き合う中で普段からやっていることそのままである。実際東畑も、臨床の現場では心理療法には至らず「ふつうの相談」で済ますことが多いと言っている。専門のカウンセリングを受けに行ったとしても、案外やることは同じなのだという話であり、私にとっては意外な気もしたし、よく考えればそうれはそうだろうとも思った。ということは、私も「ふつうの相談」を担う現場の対人援助職の一人として、ちゃんと「ふつうの相談」をしなければならないとも改めて思った。(なお、家族内の問題については家族療法という手法もあり、家族を正式に巻き込んで治療プロセスを作動できる条件があるのであれば、そういう専門的な手段はあると思われる。)

 いずれにせよ心理療法とは、従来の生きづらい自分の物語を捨ててより健全な物語を立ち上げる作業であるから、大なり小なり価値観や信念体系の変容を伴う。それには功罪があると思われるが、とにかく大なたであることに変わりはない。だからプロの心理士は安易にそれを使わない。まずは外部の環境を調整することで対処できないかを検討する。周囲の理解や協力を取り付けるための手助けをすることが心理士の初期の仕事になる。もしこの環境調整がうまく行って、クライエントの心理的安全が確保できたならば、いよいよ心理療法という大なたを振るう可能性が出てくる。逆に環境が好ましくないにもかかわらずクライエント個人だけを変容させるべく心理療法に踏み切ってしまうのはリスクが大きすぎると判断される。とにかくまずは環境調整である。そして次に取り組まれるのは状況の理知的な理解なのだという。クライエントが自分の置かれた状況を客観的に理解し、言語化できるようにすることだ。これだけでもかなり回復に近づくのだそうだ。心理士が本人の内面にまで介入するのは最後の最後という順序になる。

環境調整が大事

 臨床心理士は、相談にやってきたクライエントの周囲にどういう人たちがいて、誰にどんな協力を依頼することができるかを検討する。いろいろな関係機関(ソーシャルワーカーやデイケア、学校、医者など)とのコミュニケーションも必要になる。クライエントとの1対1のコミュニケーションだけで済めば楽なのに、その周辺環境にまで積極的に介入する姿勢が求められる。

<ふつうの相談>が果たす第一の機能は、クライエントを取り巻くケア資源の拡大である。環境調整の項で述べたように、家族や職場、学校と連絡を取り、交渉を行い、クライエントに対する暴力や不利益を止めて、代わりに配慮を引き出すのが<ふつうの相談>の最重要の機能である。多くの人が心配して、見守り、手助けをしてくれる状況を作り出すことが、心の回復のための基本である。
 言うまでもないことであるが、クライエントの抱えている問題は個人の内側だけではなく環境の側にも存在している。ほとんどの場合、両方の要素がある。このとき、先に介入すべきは環境である。環境に暴力が吹き荒れ、ケアが欠如しているとき、人は混乱に陥るが、環境が整備され、ケアが厚くなるならば不安は和らぎ、考える力が戻ってくる。この段階に至ってはじめて、個人の心の問題を扱うことができるようになる。これは多くの現場的心理療法論で強調されているところである。

 私自身の仕事の話になってしまうが、受験業界は生徒を取り巻く環境の健全化などに関心はない。むしろ実態は逆であり、まず保護者を不安にさせ、急き立てることによって契約を獲得しようとしている。その結果生徒がやって来れば、生徒に対しても当然プレッシャーをかけ、急き立てるようなコミュニケーションが行われる。受験業界はメンタル不調の温床である。その直接的な原因は家庭にあるが、保護者を煽っているのが当の業界であるという残念な構造がある。この業界のどこにケアなどがあるのかと思われるかもしれないが、一方で現代の塾業界は個別指導という形態が多くを占めるようにもなってきている。個別指導はコーチングにもなればケアリングにもなる。生徒が健康で前向きで、目標に向けて精力的に努力できる状態であれば指導はコーチングになる。しかし個別指導を選んでやって来る生徒の中にはメンタルケアを必要とする状態の子も多い。勉強のモチベーションが不足していたり、そもそも保護者から事前に聞いていた進路希望が本人の話と食い違うこともざらにある。たいていの場合、勉強のモチベーションに異変がある生徒には、その背後に親子間のコミュニケーション不全がある。にも拘わらず保護者は原因を外部化して、塾に放り込んで強制的にやらせようとするから話がこじれる。講師としてはこれ以上迷惑な顧客はいない。だから、このnoteでも散々書いてきたように、私はしばしば保護者と対立してきた。ある種の保護者は私にとっては「地雷」でしかなく、「敵」と認識してきた。
 しかし、「ふつうの相談」の担い手としては、そんな保護者をも生徒の味方に変える努力をするべきなのだろう。教育者は生徒とだけコミュニケーションを取っているほうが楽だが、やはりそれでは済まないので、保護者とのコミュニケーションにももっと積極的にならなければいけないのだろうと思う。今までは厄介で面倒な時間外労働だと思って忌避してきたが、家庭に介入することなく生徒を守ることはできないという限界も感じていたので、この機会に認識を改めて、今年は取り組んでみようと思う。

 そのように思えたのも本書の射程が広かったからだ。「ふつうの相談」はプロの心理士にとっても非常に大事な機能とされるものだが、それは他の対人援助職の人でも出来ることでもある。もちろんまったくの素人でも身近な人間関係の中で出来ることでもある。そう考えれば「ふつうの相談」をちゃんとやろうという意欲が湧くというものだ。本書は普通の人たちによる普通のケアを励ます本でもある。資本主義の論理を前にして諦めてしまいたくなるときもあるが、あえてそれを逸脱するようなケア的な関わり方をしてみようかと思わせてくれる、そんな本だった。
 よく出来た本だと思う。人文趣味が過ぎることなく図式的な説明に専念したのも良かったし、ページ数が200ページ弱と短いのも、読者の間口を広げる上で効果的だろう。幅広く一般の人たちに読まれてほしい本なので、このような書き方は正しかったと思う。

補足

 とはいえ、受験業界の現場で「ふつうの相談」を実践するためのハードルは高い。その障害になるのは保護者だけではなく、塾のスタッフが妨害してくることもある。その構造上の問題は下記記事に詳しく書いた。

 そして、実例として深刻な問題が起こったケースの話は下記記事に書いた。

 要するに、講師が保護者に関わろうとしても、その間に入っている塾の社員がコミュニケーションを堰き止めてしまうのである。私は社員から「講師は授業内容の報告だけをすればいいのであって、それ以外の報告は不要だから削除してください」と言われたこともある。(当然無視したが。)つまるところ塾の社員はクレームだけを恐れているので、クレームになりかねないことは何もしたくないのである。このようなメンタリティではケアは全く起動しないし、「ふつうの相談」など夢のまた夢だろう。

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