突然ショートショート「風薫るハンバーグ」/シロクマ文芸部
風薫る家庭料理、という題に、僕の働くレストランのシェフが挑んでいる。
「今日はどうかな、松岡さん」ホールの桑田さんが僕に話しかけてくる。
「さあ…試食は受け付けなさそうですけどね」
「メニューに出してくれたらいいのに。そうしたら客として食べに行けるけど、高野くん」桑田さんは少し残念な顔をしていた。
松岡太二シェフ。レストラン『スマート』で働く一人のシェフである。
今回、腕試しを兼ねてテレビ局が主催する『家庭料理対決』に出場する道を選んだという。
夕方番組のワンコーナーという小さな規模の大会なのだが、シェフは気合いを入れて張り切っている。
店も全面協力していて、いつも閉店後に奥の厨房で対決用の料理を作っている。
後片付け中に僕も何度かその姿を見ているのだが、いずれの時も真剣そのもので、近寄りがたいオーラが出ていた。
そして今日も変わらず近寄りがたいオーラを放っていた松岡シェフだが、この日はなんと完成した料理を盛り付けていた。
初めて見る光景だ。今日は僕たちの後片付けが長引いたのもあるだろう。
盛り付けを終えたシェフは、僕たちの方を向いた。
こちらは一瞬驚き、2人で目を合わせる。
再びシェフの方に目をやると、盛り付けた皿を持ってこちらへやってきた。
「お疲れ様です」軽く僕らに一礼したシェフ。
「どうも」「あ、お疲れ様です」僕たちもそれに返す。
「これ、食べてみてくれませんか」
「え?」
「ぜひ率直な反応を聞かせて下さい」
「…はい!ぜひ!」「私も!」
何と、シェフが僕たちに試食させてくれることとなったのだ。
予想外のことで驚いた。
「さあ、どうぞ」
「いただきます」「いただきます」
ハンバーグだった。ナイフを刺すと肉汁がブワッと出てくる。
口に運ぶと、肉やソースの旨味と共に、鼻から何かが抜けるような感触がした。
どこか『風』が薫るのを感じる。これが『風』か。
「あの、これは…」
「わさびです」
「わさび!?」2人で口を揃えて驚いた。
「意外でしょう。気づかなかったようですが」
本当に意外だった。僕はわさびが嫌いなのに、今回は食べることができたのだから。
失礼ながら『わさび入りハンバーグ』と最初から知っていたら、食べなかったかも知れない。
案外、人は先入観やイメージに弱いのかもしれない。そんなことを考えた。
シェフ、これはきっとうまく行きますよ。
(完)(978文字)
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