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突然ショートショート「旅行に行こう」

 旅行に行くことになった。平日のほんの数時間を使って。
 多分世間一般では『お出かけ』と分類されるものになるのだろうが、私にとっては別物だ。

 何せ、普段の行き先は近場のショッピングモールと職場である工場の2箇所しかないのだから。
 気分転換に出かけることはあっても、その行き先は概ね近くの公園とか、河川敷、そして同じく近くのジム程度で、世間では『散歩』の域だ。

 行き先はどこにしようか。ネットを見て考えた結果、少し遠い場所の温水プールに決めた。「冬にプールに行くと、人が少なくてゆっくりできる」と書いてあったから。

 家を出たのは昼前。
 駅までは自転車で向かったが、その道のりはどこかいつもよりも鮮やかに色づいて見えた。

 ICカードで改札を通るのも久しぶりだ。
 プラットホームで待っていると、すぐに電車がやってきた。
 工場のそばで何度も見たことはあるものの、一度も乗ったことのないあの電車だった。
 ドアをくぐり、空いていた席に座る。すぐに発車ベルが鳴ってドアが閉まり、電車が動き始めた。

 窓の向こうの空模様は変わり、青空が見える程度の薄い雲がかかっていた。柔らかな白い光が車内に差し込んでくる。
 子供の頃、母親に連れられて電車に乗った時のような興奮を感じる。

 着いたのは少し南の方の駅だった。スマホの時計は11時40分頃を示していた。

 すぐそこのプールで入館料を払い、更衣室へと向かった。
 更衣室には使われているロッカーはあるものの、誰もいなかった。ロッカーを開け、リュックの中から取り出すのは黄色のビキニ。
 一度家で試していたので安心して服を脱ぎ、ビキニを装着。やはりピッタリだった。体型を維持できているようで嬉しくなる。

 いざ、温水プールへ。
 中では数名がいたものの、やはり空いていて心地よい。
 早速、自由に泳げるレーンへと入ってみる。
 温かい水が体に触れて心地いい。脱げない程度に軽く泳いでみるとますます心地よくなる。

 満足してプールサイドで休憩していると、私のことを怪しむ別の人の視線が飛んできた。
 まあそうだろう。こんな所にビキニで来る人なんて中々いないだろう。でもここは珍しくOKなのだからそれでいいのだ。

 こうして、私の『旅行』は終わった。
 意外に印象が強いものだった。一生の思い出というと大袈裟かもしれないが。

(完)(935文字)


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