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「青さ」を意識化し、「成熟」を問われる――『ライ麦畑でつかまえて』を読んで

1月前半まで、ずっと卒論を書いていた。目の前にやるべきことがあると、それ以外のことに目が行ってしまうのが世の常。
勉強しようと思ったら、部屋の掃除。本の整理をしようと思ったら、出てきた本を読みふける…

そんな風に、卒論に取り組んだおかげで、読みたい本や見たい映画がたまっている。

卒論も終わったこのタイミングで、やっとそれらを読める!見れる!
せっかくなら、見たもの読んだものをアウトプットしたいと思い、つれづれなるままに、所感を残す。

卒論明け一発目に読んだのは、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。

この本との出会いは、もうずいぶん前。アニメ『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』で出会った。

このストーリーの核となる「笑い男事件」にかかわって、この本が登場する。
そこでは、『ライ麦畑でつかまえて』に出てくる次の一節が引用されていた。

僕は耳と目を閉じ口を噤んだ人間になろうと考えたんだ

※この一節は、僕の読んだ野崎孝訳ではなく、村上春樹訳の方の表現のようです。
野崎訳では、「ぼくは唖でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ」(p.308)となっています。

そこから、引用元のことが知りたいと思い、この本を読もうと思ったのだ。

あらすじ

主人公のホールデンは、ある有名な高校に通う高校生。だが、そんな彼は、成績不振を理由にその高校を退学となる。退学になる直前、ホールデンはひとり学校を飛び出し、ニューヨークへと向かう。ホールデンは、ニューヨークをさまよい、様々な人との出会い、感情の起伏を経験しながら、社会と折り合いをつけていく――。

ざっと流れはこんな感じ。

高校を退学したことからもわかるように、主人公のホールデンは、まだまだ青さを残した一人の若者。そんなホールデンは、社会との折り合いをつけることなく――折り合いをつけるなんて負けだ!とまで思っていたのではないだろうか――自分の感情、期待、正義をかざし無防備に社会に立ち向かっていた。

こうして社会に立ち向かいながら生きようとするホールデンが選んだ手段が、ニューヨークに向かうこと。それもひとりで。
こうして、大人の世界の象徴ともいえるニューヨークをさまようこととなったホールデン。社会の不合理を肌で感じながら、彼の生き方も少しずつ変わっていく。

ホールデンの「青さ」

社会に折り合いをつけようとしなかったホールデンは、とにかく身の周りのあらゆることに憤りを感じる。
先生の言動、友人の一挙手一投足、バーの店員の態度…
挙げ出したらきりがない。本当に常にいらいらしている(それをひしと感じさせる野崎孝の訳もすばらしいものだ)。

しかし、その憤りを表現する言葉が、なんとも言えないのだ。

――おもしろくない映画に対して、「へどが出そう」
――適当なことを言う友人に対して、「嘘をつけ、この馬鹿野郎」
――話してもうまく対話にならない知人に対して、「退屈な男」「ウィットに欠ける」

いかんせんその憤りが、無骨なのだ。それを適切に表す言葉が見つからないのだろう。粗雑な、とがった言葉でその憤りを表現するしかない。

それに、常に自分が正しい、自分の基準こそが唯一絶対なのであって、その基準で世界は認識されるべきだ――そんな思いも、ホールデンの言葉から読み取れる。

自分のものの見方に一点の曇りもない。だからこそ、社会に折り合いをつけることなどありえない。しかしながら、社会とのずれ、すなわち憤りを無骨な言葉で表すしかない。こんなところに、彼の「青さ」が感じられる。

そんな「青さ」を突き放して見れない自分

本全体を通して、ホールデンの「青さ」が目につく。ときに、それは腹立たしいほどに。
読み進めながら、ある意味傲慢な、偏ったホールデンの語りに、嫌気がさすほどだった。

だが、いったいなぜ自分は、ホールデンにこのような嫌悪感を感じているのか。
ホールデンが自分とは全く違う世界を生きているならば、ホールデンの青さなど他山の石で、気にも留めないだろう。

考えながら読み進めたところ、どうやら、この嫌悪感は、「同族嫌悪」のようだ。

同じような「青さ」が自分にもあるのではないか。

もちろん、今の自分はホールデンほど社会を憎んでいないし、エゴを突き通そうともしていない。

だが、自分の思いを精確な言葉にできず、粗放な言葉で取り繕う自分。そんな自分の思いやものの見方を、正当なものだと思い込む自分。またそう思い込みたい自分。――そんな自分が、どこかにいる気がしてならないのだ。

一方で、「過去の自分はもっとホールデンに近かったな」と考えるところもある。その意味では、「青さ」を乗り越え、成熟した自分も同時に見えてきたということだろうか。

ともあれ、ホールデンの「青さ」をまざまざと感じることで、翻って自分という存在――自分の今も持つ「青さ」と、過去に持っていた「青さ」――を意識化することになった。

「青さ」を乗り越え、成熟するとは―

たしかに、自分は「青さ」を乗り越え、社会と折り合いをつけてきたと思う。丸くなったと思う。「社会的な」人間になりつつあると思う。

でも、それで失ったものはないか。もちろん、自分がもっていてホールデンがもっていないものもたくさんあるけど、反対に、ホールデンがもっていて、自分にはないものもたくさんある。

「青さ」を乗り越えることで、結果的に自分は成熟してきたとは思う。だが、「成熟」とはどういうことだろうか。
「成熟」したかと言われれば、そんな気がするけど、うまくそれを言語化できない。「青さ」があるから、できることもあると思う。

数年後、十年後、二十年後、、、
これからもう一度『ライ麦畑でつかまえて』を読むと、自分にとってホールデンの見え方も変わり、「成熟」の意味することもより深くわかるだろう。

再読するのが楽しみな小説だ。


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