心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その44

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
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 予備校講師に挑戦
 市進学院の講師になって、一応それなりに楽しく働いて生活できるようになったが、これでずっとやっていくのは難しそうだった。
 自分の身の周りを見ても、講師で40代後半から上の人はいそうになかった。講師から正社員になり教室長などになる人はいたようだが、そのためには、まず正社員になるための試験に受かり、その後サラリーマン的に周囲に気をくばり社内営業的な努力することが求められているようだったので、それはそれで大変そうだったし、自分に向いているとも思えなかった。でも、そうするのも一つの道だったと思う。
 講師の場合1年契約なので、ある程度の年齢になったら契約更新ができなくなる可能性があり、それは当然考えておかないといけない。
 一方、予備校講師の場合、わりとベテランの先生も多い。人気があれば、定年はなく授業ができる限りいつまででも仕事ができるようだ。
 もともと予備校の人気講師に憧れてこの業界に入ったのだし、今うまくいっているからと言ってそれに甘んじてはいけないと思い、市進時代は予備校講師への転業を考えていた。
 教える教科に関しては、英語は教員免許を持ってはいるもののどうも自信がなかった。
 受験生の頃も、英語は得意な方ではなかったし、教えることに関しても、算数・数学や社会の方が得意だった。
 それでは数学かと言うと、それも自信がなかった。受験生の頃の成績はよかったが、大学及び大学院の学部は文系で、数Ⅲはほとんど知らない。
 そうすると残された選択肢は、受験時代に得意だった世界史しかないということになる。大学や大学院は歴史学科ではないが、これでいくしかなさそうだ。
 そういうわけで市進時代は、仕事以外では世界史の勉強に力を入れ、入試問題を解き、高校の教科書や大学受験生用の参考書とか一般向けの歴史の本を読んで勉強した。
 また、塾が休みの曜日に当時代ゼミで人気があった山村先生や武井先生の単科ゼミを、授業料をちゃんと払って聞きに行った。
 山村先生は、長身で髪が薄く細面でメガネをかけた先生で、授業中に「還暦を超えた私は…」といった発言をしていたので、その頃は60代だったようだ。授業は語呂合わせやおまじないを重視する実戦的な内容だった。例えばオリエント史だったら「シュメール・アッカド・バビロニア・ヒッタ・カ・ミタンニ・アラ・フェニ・ヘ…」という古代オリエントの民族名の最初の何文字かをずらずらとつなげたおまじないによって民族が出現した順番を覚えるように指導する。とてもうまくできている語呂合わせ・おまじないが次から次へと紹介されるので感心したし、自分で授業をする時は参考にしようと思った。
 それと、山村先生はキリスト教を信仰していて、そういう傾向の話をすると言葉に重みがあったが、これは人格的なものがかかわっていることなので真似することは不可能だと思った。
 武井先生は、山村先生とは全然違う芸風で、細かい字で物凄く詳しく書いてある年表を使って授業を行った。
 躍動感ある歴史物語を語る授業で、「世界はお互いに影響しあっているので、同じ時代には、複数の地域で似たような事件が起きる傾向がある」といった歴史年表を横に見る見方を大切にしていた。物凄い学識に裏付けられた授業で、浪人時代に聞いた大岡先生の授業に似ているところがあった。
 武井先生は、しゃべり方が独特のべらんめえ調で、本質を言い当てる言葉をズバッと最初に述べてからそれについて解説するという論法を得意にしていた。例えば現代中国史だったら、「毛沢東ってえのは政治家じゃねえんだ」と言って、その後、「毛沢東は中国をよくしようと思って政治にたずさわっていたわけじゃなくて、自分が一番権力を持っているとか注目されているという状態自体に強烈な感心をもっていた人だった」といった趣旨の解説をした。
 自分もああいう授業ができたらいいなと思ったが、もちろんそれは、自分で十年くらい一生懸命勉強してもできるかどうかわからない大目標で、授業を聞いて真似するだけでは絶対駄目だということは、わかっているつもりだった。

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