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筋肉は思想の媒体か?

藤澤君に初めて会ったのは「141歳の写真展」の企画「POP BEPPU MAP」で彼が働いている「one gram」にポスターを貼りに行った時だった。

僕の中学の同級生がone gramで働いている青木さん(今回撮影した店長)の知り合いでポスターを貼ってもらおうと飛び込みでお店にお邪魔した。青木さんはその日不在で、対応してくれたのが藤澤君だった。

第一印象の爽やかさと対応の丁寧さを見て、すぐにルートハチハチで撮影したいと思った。自分のことを「私」と言うのも彼の真っ直ぐな生き方を表しているようで面白かった。一緒に行った同級生も「同じ職場で働いてる二人を撮ったら面白いんじゃない?」とイメージが湧いたようだった。その後、すぐに青木さんに連絡をとって二人を撮影することになった。

僕は散々「別府の魅力は人」と言ってきた。それは別府出身という意味ではなく、この街が大好きで別府に染まる人のことをいう。明るくて元気な青木さんと丁寧で落ち着いた藤澤君。一見真逆の二人が同じ真っ直ぐな目をしているのがとても印象的だった。是非、二人のインタビューを読んでみて欲しい。きっと別府に、one gramに行ってみたくなるはずだ。

ちなみに全くの余談だが、僕は三島由紀夫が好きでよく読むのだがその中で筋肉について、もっと言えば「外面」と「内面」について語られている台詞がある。自分の内面の脆さや弱さを「筋肉」という外面で補填しているようにも思えるこの文章。筋肉をこういう考えで語る三島由紀夫は本当に面白いし、今回撮影した二人がこの台詞とは真逆の考えなのもまた面白い。

悲しんでいる筋肉の悲しみを見るがいい。それは感情の悲しみよりもずっと悲壮だ。身悶えしている筋肉の嘆きを見るがいい。それは心の嘆きよりもずっと真率だ。ああ、感情は重要ではない。心理は重要ではない。目に見えない思想なんぞは重要ではない!
思想は筋肉のように明瞭でなければならぬ。内面の闇に埋もれたあいまいな形をした思想などよりも、筋肉が思想を代行したほうがはるかにましである。なぜなら筋肉は厳密に個人に属しつつ、感情よりもずっと普遍的である点で、言葉に似ているけれど、言葉よりもずっと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。
—『鏡子の家』三島由紀夫

2020.12.2 東京神父
別府おぐら「小倉人」

東京神父 写真家。1978年4月20日生まれ。 別府出身、自由が丘在住。