COLUMN:伝統と発展の交差点にあるもの/道明葵一郎
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COLUMN:伝統と発展の交差点にあるもの/道明葵一郎

TOKYO BIENNALE note

池のほとりの池之端

私は台東区上野で有職組紐 道明(ゆうそくくみひも どうみょう)という伝統工芸の組紐店を営んでおります道明葵一郎と申します。現在私で10代目となります。東京ビエンナーレにはエリアディレクターという立場で開催地域とアーティストを結び付ける役割として関わらせていただいております。私の店は上野で360年ほど組紐の製作と販売を続けておりますが、私たちがよりどころとする組紐についての技術や知識、そして商売を続ける上での価値判断や習慣といったものは、過去からの蓄積にその多くを負っています。それは長年にわたり、本店のある上野池之端仲町通りという土地に育まれたものであるとともに、社内社外問わず360年という長い年月の間に店に関わった無数の人々によって育まれた物でもあります。

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上野という街は江戸の昔から北東の裏鬼門を守護する寛永寺の門前町として発展したわけですが、寛永寺の足元には、京都の裏鬼門に置かれる延暦寺に対応して、琵琶湖にも見立てられた不忍池が広がります。台地に挟まれた低湿地の水場によく見られ典型的な例として、池のほとりに古くから花街が栄えました。不忍池の南側にある池之端仲町通りは、江戸の昔から花街と商家が共存する町でした。私の会社はこの仲町通りに面した一角で、長年商売を営んでいます。この町は昭和の時代までは芸者街でしたが、現在においてはキャバクラやガールズバーがひしめく現代の繁華街となっています。良い時代には昼間は名品を売る商店が多数立ち並ぶ趣味の良い都内でも名の知れた通りでしたが、そういった歴史ある商店は減り続け、今は昼間は人が少なく、夜になると酔客と客引きと風俗店のサインによって通りの景観が埋め尽くされています。年々地域としての様々なバランスが崩れつつあるのを感じます。

江戸時代の「町」と「通り」


巨大都市の構造は、道路、河川、行政区、用途地域など様々な構成要素のレイヤーが重なりあったものとして解釈されますが、そのなかでも現在の東京の全体像を認識するにあたっては、鉄道の駅という点を中心に街が形成されているという認識がごく一般的ではないでしょうか。人間、交通、商業などあらゆるものの密度が主要な駅に近づくにつれて高まっていく、多焦点の都市像が容易にイメージされます。それに対して江戸という都市は、もちろん社寺や広小路のような結節点の構造、水運や街道のような移動経路の構造などが存在しながらも、それ以上に「町」を単位として形成されたセルが集積した都市というイメージがあります。切絵図などに描かれるように、「町」と「武家屋敷」という2種類の領域が、顕微鏡で見た生物の細胞のように押し合いへしあいながらどこまでも続いていき、都市全体を形成しています。大江戸八百八町と言いますが、19世紀半ばには江戸の町数は千七百町を越えていたようです。それぞれの「町」は自治組織がしっかりしていたようで、火消しから防犯、そして課税も「町」単位で行われていました。そしてその「町」の中心に「通り」があり、「通り」の両側には商店が軒を連ね、その町に住む人々が責任を持って「通り」の管理・保全を行っていました。「通り」は「町」の顔であり特色を表し、例えるなら細胞の中にあってそのふるまいを決定づけるDNAのようなものでした。現代においても東京のあらゆる場所が町会単位に区分けされ、また商業地においては商店会や通り会といった組織がつくられていますが、それらのなかには江戸時代以来の「町」単位の自治を源流とする意識が脈々と流れていることを感じます。

「町」のなかでの「商」、からの東京へ

私の会社が生業としている組紐という伝統工芸は、昔は江戸の各町内に点在していた糸商(いとあきない)という業種に含まれていました。日本人が洋服を着る以前、ボタンやチャックがもたらされる以前、人々は結びによって衣服を固定していました。また、箱を閉じたり、本を閉じたり、あらゆるものを閉じるのに使われていたのは紐でした。日常生活の中にまったくありふれた存在であった組紐ですが、それが明治維新後50年とたたずに多くの用途を失ってしまいました。弊社においても、江戸時代の主な取扱品は武士の刀の下げ緒でしたが、廃刀令によって全く需要が無くなってしまいました。江戸時代において糸商たちは自分たちの仕事を、現代においてオムツやミルクを作る仕事と同じくらい、人間の生活にとってなくてはならないものだと考えていたのではないでしょうか。それゆえ、まさか自分たちの仕事があっという間に斜陽になるなどと思ってもいなかったことでしょう。とにかく武士の世の終焉と生活スタイルの西洋化の衝撃は大きかった。そのなかで多くの組紐店は、和服の帯締を生産するようになりました。産業としての基幹技術はそのままに、作る品目を変えたのです。弊社においても、明治の後期のお太鼓結びの確立と共に、下緒の長さや太さはそのまま流用し、渋く粋であった下緒の色と柄を女性の帯締に合った華やかなデザインに変化させていきました。

時を同じくして組紐業界にも、そして多くのものづくり業界にも機械化の波が訪れ、工芸は工業へと変化していきます。6代目当主の頃(1920年頃)には多くの組紐店が、紐づくりに機械を導入する中、弊社は、手仕事によって作られた工芸品には機械生産品には無い何らかの価値があるはずと考え、かたくなに手作りの組紐づくりを貫きました。戦後になって7代目当主の頃、それまで職人的マニファクチャの世界であった組紐業界に、学術的視点を持ち込むことを試みます。当時の著名な美術史家、研究者と共同で、組紐の歴史的変遷、構造組織の分類と体系化、そして様々な紐の価値づけを行っていきました。8代目の頃にはその方針をさらに推し進め、それまで謎に包まれていた平安末期から室町時代前期までの最も複雑な組紐の組織の解明に成功し、その後日本に残るほとんど全ての歴史的な組紐を実際に復元するに至りました。

6代目

6代目道明新兵衛によるデザイン画

芸術家と関わる歴代の当主たち

明治も中期になって世情が落ち着きを見せると、古典文化の価値を見直す機運が高まりました。弊社においても、5代目当主の頃(1890年頃)は岡倉天心をはじめ日本美術院にかかわる芸術家たちとの交流もあり、店は文化人たちが訪れるサロンのような場所になっていたそうです。6代目当主の頃(1920年頃)には当時の帝室博物館(現:東京国立博物館)総長であった森鴎外から奈良の正倉院に残る組紐の調査を命じられ、歴史的な組紐の研究を手掛けるようになりました。また、東京芸術学校(現:東京芸術大学)の学生たちが勉強のためによく店を訪れ食事をごちそうしていたそうですが、時は下り7代目当主(1960年頃)の頃には、その学生たちが社会に出て美術界で重鎮となり主要な権威をにぎったものですから、全国各地の寺社仏閣に残る組紐や国立博物館所蔵の組紐の調査などが大変スムーズで、大いにはかどったそうです。このような冗談めいた話が実際にそこかしこにあった時代だったのかもしれません。しかしそのような戦前の芸術家、美術家たちとの交流の記録は太平洋戦争によって店が全焼してしまい残っておりません。「大観とその友人たちに絵や和歌を羽織に寄せ描きしてもらったのが焼けたのが何より惜しい」との6代目当主の言葉のみが残っています。

正倉院の組み紐

正倉院の組紐の復元模造

戦後の店内

戦後の店内の様子

現在の東京芸術大学に近い池之端という立地上、私達以外にも地域の様々な工芸品や画材、素材などを扱う店、そして飲食店や雑貨店などと、芸術家や芸術を志す学生たちとの頻繁な交流があったようです。例えば、弊社の近くにある堺屋さんという酒屋の看板に取り付けられている店名の立体文字は、彫刻家朝倉文夫が唯一残した商業施設向けの作品です。今も続く老舗のパッケージデザインなどにも東京芸術学校の教員や、出身の芸術家が手掛けたものがいくつかあります。上野のある旦那衆の話では、やはり昔は店主が店の上に住んでいて売り場にも立っていたので、お客さんとして来店した芸術家と密に交流していたのではないかとのことです。

場所と人の交差点


道明の歴代の当主たちは時代に合わせて様々な方向に組織を動かし、社会の変化や難局を乗り切ってどうにかこうにか現在に至っています。また、地域の芸術家たちをはじめ多くの人々と関わることでそのたびに組紐の新しい展開が開けていきました。これまでお話しさせていただいたのはあくまで私の会社という1つの事例にすぎませんが、この地域に今も続く多くの老舗には、様々な時代に様々な人物の物語、そして人と人が出会うことによって生まれる物語が、江戸の昔から現在に至るまで地層のように積み重なっているのではないでしょうか。その一方で、池之端仲町通りには、不忍池がまだ海の一部で湯島の大地と上野の山に挟まれた入江であった頃からの地政学的な変遷、そして前述のような江戸から東京に至るまでの都市としての変遷が、密に折り重なっている場所でもあります。これは場所の物語でもあります。

人の物語と場所の物語、それらが交差する地点に新たな歴史というものが生まれたように思えます。場所のない人の物語も、人が登場しない場所の物語ももちろん成立します。しかし濃密な歴史を湛える場所というのは、これから先の未来においても歴史を記録することが習慣化されているように思えますし、濃密な人と出来事を呼び寄せる力があるようにも思えます。その両者が交わるところにおいて生まれる物や出来事は、その場所にかかわる人々の記憶に長く残り、語り継がれる新たな歴史となるのではないでしょうか。

ひるがえって現在

私は東京ビエンナーレに関わる中で、必然的にアートというものに接する機会も多くなりました。組紐を含むいわゆる伝統工芸という分野においては、個人の作家性や技術、表現力ももちろん大事ですが、それ以上に代を重ねるごとに積み重ねてきた歴史を主に語ります。それに対して私の認識ではアーティストはほぼ一代限り、その代わり強烈な個性、独自の思考様式、そしてそれを他者に伝える表現力が武器となる世界と感じました。もしかしたら伝統工芸や伝統芸能の各分野においてもその始源においては、アーティストのような革新的な人間によって新しい技法が生み出されたのかもしれません。しかし、そうではなくもっと古の過去から土着的、一般的な技術の漸次的な進歩と洗練の果てに行き着いた工芸かもしれません。はたまた、現代アートにおいては物自体よりも事物の意味の解釈こそ重要であるため、その点で過去の美術や工芸とは一線を画しており、伝統工芸と関連付けることは適切ではないかもしれません。しかし、さらに大きな枠組みで考えれば作家性か歴史性かの違いはあれど、アーティストも伝統工芸の老舗も、人が物を生み出し、それを語ることによって成立します。人が中心となって生み出す表現の枠組みの一形態であることには変わりはありません。

そしてこの東京ビエンナーレの舞台となる、東京北部エリアは、長い時間をかけて培われた特色ある地域がひしめいており、まさに場所の物語が濃密に集積されています。そして2年に一度というタイムスケジュールによって時間を刻んでいくことが決定づけられているわけですから、この場合、場所という概念には空間的な場所だけでなく歴史を刻む時間軸も含めた地点と考えた方が良いかもしれません。場所の物語、それはまさに時間と空間すなわち時空間のなかに作られる物語なのかもしれません。場所×人、町×芸術、サイト×アート、時空×サピエンス、などなど呼称はもはやなんでもよいですが、歴史を語り継ぐことが習慣化されている場所、そして語り継ぐべきモノやコトを起こす人、その両者が結びつき相互作用を生じさせることによって、見たこともない芸術表現が生み出され、そして新たな歴史が紡ぎ出される、そんな機会となることを願っております。

道明葵一郎(株式会社道明代表取締役)
道明公式サイトはこちら

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東京ビエンナーレの公式noteです。参加アーティストやディレクター、市民委員会の方々等のインタビューや対談、寄稿記事、また作品の進捗などをご紹介いたします。