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恋愛ってなんだろ、新宿 -第2話 銀座の夜は何味か-

人の幸せを喜べる人間が、この世にどれだけいるだろう。母数に対してごくごくわずかであれ。人の幸せを喜べない寂しい人間の1人であるわたしは常に、切に、そう願っている。どちらかといえば、多数決をしたら多数派でいたいタイプだった。

今でこそ、やさぐれた女になってしまったけれど、少なくとも昔は。そう弁明しかけて、やめた。わたしに人の幸せを喜べた時代があっただろうか。白亜紀まで記憶をさかのぼろうとも、そんな明るいエピソードは見当たらなかった。

iPadで後輩からのメールをチェックしながら、スタバのコーヒーを飲みながら、たねくんのLINEを待ちながら、何を隠そうわたしはいま仕事をしている。

外資系企業に勤めて、早くも6年目になる。女子のなかではわりと登りつめたほうだ。

ふと通りかかった給湯室で、新入社員の女の子たちがわたしをネタに話しているのを聞いたことがある。そのときのわたしのあだ名は「バリキャリ」だった。

尊敬からそう呼んでいるというよりかは、どちらかといえば皮肉交じりのあだ名だった。わたしは自然と顎をしゃくり、手足を同時に動かしながら、給湯室の前を通り過ぎた。聞いていないフリをするのが異常にヘタだった。

気がつけば、窓の外はもう暗かった。ガラスに自分が映っている。マツエクをしている上向きのまつ毛のシルエットが、顔の輪郭をはみ出しているのが見えた。隣のビルはぽつぽつと白い明かりをともしている。

秋が来てしまうと日が暮れるのが早すぎて、夏季の倍以上は残業しているような気分になる。社員の多くがそんな気分なのか、この部署内にはもうわたししか残っていなかった。

「あー、スパ行きたいっ」

デスクに座ったまま仰け反って伸びをした。誰もいないのをいいことに、大きめの独り言を発してみる。やまびこの反対で、この部屋はあっという間に声を吸収してしまう。すぐに何事もなかったかのように静まり返った。

社員証をタッチして会社を後にする。ライトアップされた樹木が並ぶ並木道を歩き始めると、たねくんから「久しぶり」というLINEが入った。あまりにも味気なく、脈絡のない文面だった。数年ぶりに連絡してきた男友達かよ、と思った。

そんなふうに突っ込みながらも、わたしはるんるんで返信する。すると、珍しくまたすぐに返信が来た。

「ご飯行かない?」

「行きたい!」

動くハートマークを3連続ぐらいさせて送り返した。わたしの本性を知っている昔からの友人は、そんなわたしを「激イタ女」と呼ぶ。

「激イタでケッコーコケコッコー」

セリーヌのトートバッグを大きく振り回し、人工的な並木道をヒールでスキップしながら進んだ。流れで、アルプスの少女ハイジの主題歌を口ずさんだりもした。着地時にふらつき、足首がグキッとなったところで、ようやく平常心を取り戻した。

「え、怖い怖い」

自分で自分が怖くなるのが、こんなときだった。言っておくが、会社を出てからここまでずっと1人だ。たった1人でこのテンションなのだ。

たねくんとの待ち合わせ場所は銀座。バックと揃えたセリーヌの腕時計を見て「たいへん、急がないと」と、わたしは懲りずにヒールで駆け出した。


地下鉄は銀座駅に滑り込む。ホームへ降りるなり、なまぬるい風が吹く構内を、タイトスカートがミシミシいうくらいには全力で走った。地上へ出ると、脇や背中にかいた汗が途端に冷えて寒かった。

ひと息つく間もなく、約束の店へ向かう。体こそ29歳だけれど、恋人に呼ばれたときのわたしの喜びようは、17歳の頃から変わっていない。早く会いたい。それだけで、夜の銀座をいくらでも走れた。

店へ着くと、たねくんが予約しておいてくれたおかげで、スマートに席へ案内される。少し暗めの落ち着いた高級レストランだった。たねくんはまだいなかった。先に手渡されたメニューを見ていると、テーブルに伏せてあったスマホが震えた。裏返して画面を見ると、たねくんからだった。

「ごめん、今日行けなくなった」

わたしは、ふつふつと湧き上がってくる怒りのような虚しさのようなものをなんとか抑え込む。そして、ふっと力を抜いた。いつものことだ、と。

瞬時にテンションをぶち上げ、またすぐに撃沈したわたしは、空腹を感じなかった。ここが高級レストランでも、牛丼屋でも、それは変わらない。ため息をつくことも忘れていた。

「あら、君、偶然だね」

こんなときに、いけ好かない声が前方から聞こえた。一昨日までなら知らない者同士、ただすれ違っていただろう。昨日、ファミレスで相席になってしまったがために、こんな無様な夜にでさえ声をかけられてしまう。

わたしは睨むように顔を上げた。バーミリオンカラーのセットアップを着た富所が、テーブルを挟んだ向かいに立っていた。パンツでなく、ジャケットのポケットに手を入れているところにイラっとした。

「僕はこれから帰るとこ。君は?」

言って、富所は何かに気づいたような顔をし、哀れんだ表情を浮かべて口を手で覆った。

「すっぽかされたんだ?」

どうしてこの男はそういう勘が冴えているのだろう。いずれにしても腹が立つ。

「いえ」

わたしはそれだけ言って、再度メニューを開いた。

「そんな夜はさ、イケてる男と甘いもんでも食べなよ」

そう言うなり、富所は今頃たねくんが座っているはずだった席を引くと、腰を下ろした。そして、軽く手をあげてウェイターを呼び、メニューも見ずにやたらと長い名前の料理を頼んだ。

「まあ、銀座の夜も悪くないよ」

富所は片手で頬杖をつき、ゆっくりと息を吐くように薄い唇で笑った。髪の毛は変わらずもじゃもじゃしている。先ほどのオーダーと同時に白ワインが注がれたワイングラスを、富所はもう片方の手に持つと、「乾杯」と言ってわたしのグラスに軽く当てた。

二夜連続のタイタニック放映なら嬉しいけど、二夜連続の富所は嫌だなあ。わたしは心のなかでつぶやいた。何の気なしに白ワインを口に含む。

「うまっ」

高級レストランに似つかわしくないリアクションが飛び出してしまった。続いて、富所がオーダーした料理が届く。名前が長すぎて、二度聞いても覚えられなかったけれど、要するに、ミルクのソルベを添えたシナモン風味のタルトのことだった。富所は手をひらっとさせて、わたしのほうへ置くようにウェイターへ指示する。

「これ、僕のおすすめ。どうせ『うま』しか言えないような乏しい語彙力しかないと思うけど、食べてみたらいいよ」

「人をイラっとさせる語彙しか持ち合わせていない人よりマシです」

不本意ながら、ほんの一口食べてみる。すると口の中で、今まで出会うべきだったのに出会えていなかったものたちのマリアージュが起こった。甘味は人を救うかもしれない。

「うまっ」

「ははは、予想通りの語彙力」

「ちょっと、静かにしててもらっていいですか」

わたしは、最近ボブにまでカットした髪を耳にかける。それからもうひとすくい、タルトを口に運んだ。今夜ばかりは、富所のおすすめだろうがなかろうが、そんなことはどうでもよかった。

「こんななんでもない夜をたくさん過ごしなよ。男はそういう女を捕まえたいんだよ」

ワイングラスの脚を指先で持って回しながら、富所は男の代表みたいに言う。

「恋愛は楽しんだもん勝ちだよ。泣いたら負け」

「泣いたことないんですか?」

富所は少し考えてから言う。

「ない」

それが本当なのか、偽りなのかはわからない。ただひとつ言えるのは、何と答えようがイラつく、ということだった。

わたしがタルトを食べ終えると、富所は「じゃあね」と帰っていった。向かいのグラスの白ワインは少し残っていた。会計は富所が済ませたようで、わたしは来た時と同じくスマートに店を出た。

銀座の夜はシナモン風味だった。


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(これを読む時に聞きたい曲:『TV』/ビリーアイリッシュ)


第2話 銀座の夜は何味か(終)

第3話へ続く。毎週火曜22:00に更新いたしますのでお楽しみに!

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